ヒロシマを歩く16 水辺の記憶14 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

古川「せせらぎ公園」(安佐南区川内)

 広島市のデルタは太田川が大量の土砂を押し流してできたもの。そこに人が住んで町がつくられたなら、どうしても洪水と付き合わなくてはならない。

 太田川の支川の一つに古川がある。現在は「せせらぎ公園」もできて散歩や水遊びに格好な小川だが、それは太田川放水路の建設など長年にわたる太田川改修工事があってこそ。もともとは大雨で堤防が切れたらあたり一面水浸しになってしまう地形なのだ。

 1943年9月にも台風の大雨で古川の堤防が切れた。水が一気に押し寄せてくる中、道原(どうばら)シナヨさんは着の身着のまま、3歳の娘をおんぶして必死で家の屋根に上がった。

 

 その間にも水は、渦う巻いてふえてな……屋根に上がっても、主人のいうことが聞こえんほどの嵐じゃし、屋根にしがみついとったんよ。そうこうしとったら家が浮き上がって、流れ出したんじゃけえ……。三百メートルどまあ(ぐらい)流されましたのう。そりゃ生きた心地はせなんだ。(道原シナヨ「大水害と原爆と」神田三亀男編『原爆に夫を奪われて』岩波新書1982)

 

 道原さん一家は奇跡的に助かったが、県内の死者行方不明者は47人を数え、道原さんの近所でもおばあさんが一人亡くなった。

 1945年は原爆だけでなく、9月17日の枕崎台風、10月10日の阿久根台風の被害もひどかった。当時市の配給課長だった浜井信三さんは枕崎台風による洪水被害をこう描写している。

 

 市役所の屋上から市中を見渡すと、全市が湖になっていた。瓦礫や倒れた家、ガラクタがすべて水の底にかくれ、一見美しい眺めであった。“原爆砂漠”が一夜にして原爆湖水にかわっている。

 ——これで一切合切が、徹底的に葬り去られた。私はヤケッパチな気持で、いっそこの水がこのまま永久に引かなければよい、と思った。(浜井信三『原爆市長 復刻版』シフトプロジェクト2011)

 

 戦争で中断していた太田川の改修工事が再開したのは1948年で、工事の中心が太田川放水路だ。市内を流れていた七つの川のうち西側の山手川と福島川を一つにまとめて幅300〜400mの放水路とし、祇園と大芝に設置された水門から洪水時の大量の水をこの放水路に流すというものだった。

太田川放水路

 太田川放水路が完成したのは1965年。この工事でも多くの人が移転を強いられ補償を求めるのに長い年月を必要とした。ここらあたりの血の通った話は山代巴さんらによる『この世界の片隅で』(岩波新書1965)に書き記されている。

 ともかく、太田川放水路の完成で広島市内の水害は今のところ激減しているが、それでも高潮対策などで護岸工事はこれからも必要だという。一番簡単なのは河岸に高いコンクリートの壁を作ることだ。もちろん川の流れは見えなくなり、8月6日のとうろう流しなどできるはずもない。それではいけないという意見は行政の中からも出てきた。