ヒロシマを歩く15 水辺の記憶13 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 バラックが密集する「相生通り」にとって恐ろしいのは火事だった。1961年から1973年まで大きな火災だけで11回も発生している。消防車が入れる道はないから一度火事になれば、あたり一面焼け野原となり、焼け出された人たちはこれからどこに住めばいいのか途方に暮れたことだろう。

 1967年7月27日には172世帯532人が被災するという「相生通り」で最大の火災が発生した。このとき行政は焼け出された人たちを仮設住宅に収容し、1969年になって基町に高層アパートを建設する計画を立てたが、一方で焼け跡での住宅再建は厳禁した。火災後の7月31日には焼け跡を有刺鉄線で囲み、抗議する被災者と揉み合ってけが人も出る騒ぎとなった。(「中国新聞」1967.7.31)

 火災に遭う前の「相生通り」でよく見られた仕事は廃品回収業。また、家の軒先で駄菓子屋や一杯飲み屋をやっている人もいた。けれど高層アパートに入ったらこうした仕事はできない。「基町再開発」「広島の復興」は、「相生通り」の人たちの生活の糧のことまで考えてのものではなかったのだ。「相生通り」の立ち退きがほぼ終了した1977年も、相生橋近くには廃品が転がっている場所があり、リヤカーを引いた廃品回収業の人たちが集まっているのが目撃されている。(石丸紀興他『原爆スラムと呼ばれたまち ひろしま・基町相生通り』あけび書房2021)

 原爆が広島の人たちにもたらした生活苦は戦後長く続いたが、人々は助け合って懸命に生きた。その象徴が「相生通り」だったと言えよう。街は大火災とその後の再開発ですっかり姿を消してしまったが、それでも記憶の糸はわずかながら繋がっていた。広島市公文書館が所蔵する1970年3月撮影の基町全景写真。目を凝らしてみると、1967年の大火災の跡地に樹木の苗木が一列に植えられているのがわかる。樹木のことは同じ年の8月に「相生通り」に調査に入った学生たちも記録に残していた。

 

 1967(昭和42)年7月27日の大火(写真2-4)の跡地「ハラッパ」と呼ばれる相生では最も大きい空き地にやって来る。木も植えられ、あちこち雑草が生い茂り火事跡の感じはもはやない。

 回収された廃品が一面に干してある日もあった。涼み台が一つ、風通しも良く木の葉が風に鳴り夕涼みにはぴったりだ。昼間は紙ヒコーキを飛ばしたり、バレーボール、そして虫取りアミとカゴを持った子どもたちの姿が見受けられた。(『原爆スラムと呼ばれたまち ひろしま・基町相生通り』)

 

 行政が焼け跡に植樹して公園にしたとも考えてみたが、河川法という法律に違反することになる。やはり「相生通り」の人たちが自らの手で木を植えたのではなかろうか。ここに家を建てられないのなら、空き地をここで暮らす人たちの仕事の場、憩いの場、そして子どもたちの遊び場として活用したのではなかろうか。

 1978年3月、「相生通り」の家々は完全に姿を消した。しかし川べりに植えられた何本かの木はそのままスクスクと育って緑の葉を茂らせ、ここに街があったことを証言する日を待ち続けた。