ヒロシマを歩く14 水辺の記憶12 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 「相生通り」のバラックは法律の枠外にあったから、あっちを向いたり、こっちを向いたり、好き勝手に建てられていた。でも、家と家の間にはちゃんと隙間が設けられていることに調査した学生たちは気がついた。それは住民同士の暗黙の了解によってできたらしい。

 隙間は人の通り道であり採光通風のためであり、わずかながらプライバシーを保つためでもあったろう。一方で隙間は洗濯物を干したり鉢植えを置いたり、人が集まって世間話をしたり子どもたちが遊んだりと、そこは「相生通り」の人たちにとって生きていくために欠かせない共有空間でもあった。

 1965年に文沢隆一さんが『この世界の片隅で』で描いた「相生通り」は塩水の出る井戸と共同便所の暮らしだった。けれど1970年に街を歩いてみると、バラックの狭い家に変わりはないが家々には水道が引かれ便所がついていた。

 またカラーテレビのある家も珍しくなかったという。家に金がかからない(金をかけても、そのうち撤去されるから無駄)のでテレビや冷蔵庫などもなんとか買えたのだろう。

 「相生通り」の人たちは多くが調査にやってきた学生たちを優しく迎え入れた。これまでのこと、今の暮らしについて開けっぴろげに答えてくれる。するとやはり現実の厳しさも見えてきた。

 

 うす暗い家を訪ねた。奥(と言っても玄関から見える一間しかないのだが、なぜか奥の感じがする)の部屋に40〜50歳くらいの男の人が寝ていた。病気らしい。その人に近所に住んでいるはずの一組の親子のことをたずねた。「その人たちは、もうここにいませんよ。親が子を置いて逃げましてねぇ。私、その子を10日ばかりここにおいたんですが、何しろ責任が持てません。〇〇〇園に今はいるはずです。2年も前のことですよ」

 その間、苦しい喉の引きつりが続く。暗い部屋だ。寂しい部屋だ。「フラフラ酔ったようですよ。酒じゃありませんよ。注射打ってもらっても良くなりません」

 

 午前10時半、62歳の女性、最初話していて返ってくる答がおかしい。その人、途中で誰かを呼びに行く。私の話す日本語が分からないのだ。平気で「てっきょ」なんて言葉を使う感覚だから、こんなとき困るのだ。

 その人は今一人、長男夫婦とお孫さんが名古屋にいるらしい。21歳で日本に来たという。以来40年……どんな生活だったか……。今、彼女が日本語もよく分からない状態で、字も読めない状態でたどたどしい言葉で私の相手をしている。「大変ですねぇ、一軒一軒、体がだめになりますよ」。「ええ、明日から3日間、家に帰ってたくさん食べてきます」

 そして出る時、深く礼をして「ありがとうございました」と言うと、その人も畳の上に座ったまま礼をして「ありがとうございました」と返してくれた。(石丸紀興他『原爆スラムと呼ばれたまち ひろしま・基町相生通り』あけび書房2021)

 

 年をとり、病気持ちの、貧しい人たちが多く暮らす街。街は外から来た者に思いがけない明るさと人情を見せながら、その一方で雨漏りのする暗い一間に息を潜めている人たちもまた多かった。