ヒロシマを歩く17 水辺の記憶15 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

原爆ドームと雁木

 高潮の被害を防ぐため広島市内の堤防を嵩上げすることが決まったのは1969年だった。この護岸工事を行なった太田川工事事務所(現 太田川河川事務所)の山本高義所長は、「高潮堤防は市民を高潮から守るだけではなく、新しい広島の景観を造り出すと共に、広島市民が水と親しむことができる都市施設の一つである」と述べている(山本高義「水の都広島と太田川」河川協会『河川』1977)。

 堤防を、水害から市民を守るだけでなく、市民が川ぞいの景色を楽しみ水と親しむ場にしようという意気込みだった。太田川工事事務所から依頼されて基町護岸の基本設計にあたったのは東京工業大学の中村良夫さんの研究室。調査で広島に入ったのは1976年4月だったが、そのころ河川法には「環境」という言葉がなかったという。広島の川の風景を代表する基町護岸は時代を先取りした取り組みだったのだ。

 中村研究室の基本設計には、「被爆した歴史を尊重し、当時の護岸の石材を可能な限り活用」することも盛り込まれた。その代表が原爆ドーム前の「雁木」(がんぎ)だ。

 太田川は古くから舟運が盛んだったが、干満の差が大きいことから船着場は階段状に作られて雁木と呼ばれた。原爆ドーム前にある雁木は近代に造られたものだそうだが、その場所は江戸時代に広島藩の米蔵があったところだから雁木のルーツは江戸時代にまで遡るだろう。(広島市郷土資料館『ひろしま郷土資料館だよりNo.84』2012)

 原爆ドーム前の雁木は原爆の熱線と爆風に耐えてその歴史を伝えていること、また「その両サイドに丸みを持ったなんとも味わいのある袖押さえの石組みがある」というデザイン面からも、そのままの形で保存されることになった。中に入れない原爆ドームと違って、雁木はその上に立って川面を眺め、また川底に目を凝らすことができる。熱線に焼かれた石を手で撫でてみることができる。原爆ドーム前の雁木はとても貴重な被爆遺跡なのだ。

 基町護岸の設計にあたって調査してみると、かつての「相生通り」の跡には10本ぐらい樹木があった。聞いてもその由来を知っている人はいなかったようだ。川べりに樹木があると洪水の被害がひどくなるから切ってしまえという意見もあったが、樹木があるだけで、そこはもう人々の憩いの場の雰囲気があった。

 その当時の法律に照らして何とか残せる木はないかと検討したところ、ニセアカシアの木が一本、そしてポプラの木が一本残せるとわかった。この二本の木が今の「基町POP'La通り」の素敵な景色を作っているのだ。(現在の河川法ならもう少し樹木を残せたらしい)

2017年4月の基町POP'La通り

 でも、木には口がないから、この場所にどんな歴史があるのか語ることはできない。この町にとって大切なことは人が語り継いでいかなければならないのだ。