『オッペンハイマー』53 原子力帝国3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 松原美代子さんや「広島・長崎世界平和巡礼団」については、前にブログ「バーバラと共に」を書いており、このブログと時代も重なるので、読んでいただけたらありがたい。

 話を元に戻すと、オッペンハイマーが涙を流しながら謝ったのは、どんなことに対してなのだろうかということだ。それは1945年8月6日、9日の出来事だけでなく、今も続いていることも含まれるというのが、私の受け止めだ。

 オッペンハイマーは自分が作り出した原爆という怪物の恐ろしさを世界に知らしめたが、すぐさま檻に閉じ込めることに失敗した。核開発競争という「連鎖反応」が起きるのは明らかだった。将来核兵器は人類を滅亡させるかもしれない。その核の危険性をオッペンハイマーは声を大にして訴え始めた。

 例えば1945年11月、アメリカ哲学会での講演。

 

 皆さんの中には爆撃された長崎の写真を見て、工場の大きな鉄の梁がねじまげられ、無残に破壊されているのをごらんになった方もおいでだと思います。破壊された工場のあるものは数マイルも離れていることに気づかれた人もありましょう。焼き殺された人たちの写真に、あるいは広島の残骸に目をこらした方もおいでだと思います。(中略)核兵器の使用法は広島で決められました。核兵器は侵略の兵器、奇襲と恐怖の兵器であります。(藤永茂『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』ちくま学芸文庫2021)

 

 オッペンハイマーは、今この瞬間にも目の前で核がさく裂するかもしれないという「恐怖」を世界にばら撒いたといえよう。それを回収するためにはどうすべきか。オッペンハイマーは核の国際管理の必要性をあらためて政府に強く働きかけた。

 核を管理する第一段階は国内法の整備だった。激しいやり取りの末に1946年、「原子力法」が成立し、新たに創設された「原子力委員会(AEC)」が濃縮ウランやプルトニウム、その原料や生産設備など原子力に関するあらゆることに強大な権限を持つことになった。

 情報管理もその中の一つだ。映画『オッペンハイマー』の原作者はこう述べている。「この法律には、原子核物理学の分野で働く科学者を、ロスアラモスで経験したものよりはるかに厳しい保安体制の下に置くという条項が含まれていた」(カイ・バード マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー(中)原爆』ハヤカワ・ノンフィクション文庫2024)。

 AECの定めた機密情報を漏らしでもしたら、死刑も覚悟しなければならなかった。原爆を檻の中に閉じ込めるはずが、実際には逆に科学者、市民が見えない檻に閉じ込められ、監視されることになってしまったのだ。その中にはオッペンハイマーもいたのだが、これも彼の「やってしまった」ことの一つではあるまいか。

 「マンハッタン計画」の始まる前のこと、オッペンハイマーたちが原爆の基本設計について話し合っていた時、部屋に差し込んでくる光でテーブルの上に影が映るのを見た。それはオッペンハイマーたちを囲んでいる金網の影だった。それはいかにも不気味だったが、4年経つと、それが今度は見えない鉄格子に変わってしまっていた。