『オッペンハイマー』52 原子力帝国2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 庄野直美さんは1950年に広島大学理論物理学研究所の講師となった。理論物理学を学ぶ中、庄野さんもしだいに原爆に関する科学者の社会的責任を自分のこととして考えるようになった。

 

 アインシュタイン、フェルミ、オッペンハイマーというような第一級の原子物理学者が、原爆の開発に関係してそれを実現させたという事実、また日本でも戦時中に、原子物理学の大先哲である仁科芳雄博士が、切迫した戦局のなかで原爆開発の研究を行なったという事実、これらのことは、私のような若僧にも胸の痛む問題であった…(庄野直美『人間に未来はあるのか』勁草書房1982)

 

 1964年、庄野さんは「広島・長崎世界平和巡礼団」の一員としてアメリカに渡った。ただし庄野さんは平和運動の活動歴をアメリカが問題視してビザの発給が遅れ、巡礼団とは別に一人サンフランシスコに降りたった。

 庄野さんの役割はアメリカ各地の大学や研究所を訪問して科学者たちと語り合うこと。オッペンハイマーと会ったのはニューヨーク近郊にある「プリンストン高等研究所」だ。

 

 博士は私に、「広島・長崎のことは話したくないので、かんべんしてほしい」と、まず語りかけた。低い静かな声であった。かつて一九五〇年代に、湯川先生たちが日本での理論物理学会に招へいしたことがあるが、博士は出席しようとしなかった。米国の原爆開発指導者の中でも重要な一人であった博士は、どうしても日本を訪れる気になれなかったという。この重荷は、アインシュタイン博士も背負っていたものであるが、私はオッペンハイマー博士に直接会って、それをひしひしと感じたのであった。(『人間に未来はあるのか』)

 

 庄野さんがオッペンハイマーに話したのは、庄野さんがその頃研究していたことについてだけだったという。彼のやったことを咎めることはしなかったのだ。それはなぜだろう。

 一つには、とめどなく涙を流しながら「ごめんなさい」を繰り返す姿に、彼のうそ偽りのない悔悟を感じたからではあるまいか。被爆者と会うこと自体がオッペンハイマーにとってプレッシャーだったろう。でもオッペンハイマーは庄野さんと会う決心をした。

 もう一つ、オッペンハイマーの作り出した原爆はとてつもなく残酷な大量殺戮を引き起こしたが、しかしそうした人類への犯罪は、日本もやっていたことを庄野さんは知っていた。

 庄野さんは戦争が終わった日、占領軍に何をされるかわからないと村人が不安を募らせる中で、「戦争とはそんなもんじゃあない。わしらも中国では掠奪もしたし、大きな声では言えんようなこともしてきた」と話す人がいたと自著に記している。原爆を体験した庄野さんが憎んだのは戦争そのものだった。そして参加した「平和巡礼団」の目的は、参加者の一人で被爆者の松原美代子さんに彼女のお母さんが言った言葉が最も相応しいだろう。原爆に体を焼かれ、長くケロイドに苦しんだ松原さんだったが、それでもお母さんはこう言った。

 

 「人に良いことをしんさい。あんたがしなければならないことは、他の人がお前と同じ体験をせんようにすることじゃ」(「朝日新聞」2015.11.18)

 

 そんな「ヒロシマの心」が、庄野さんとオッペンハイマーを繋いだのかもしれない。