『オッペンハイマー』51 原子力帝国1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 オッペンハイマーは「やってしまった」。彼がつくった原爆の閃光に人の皮膚は弾け飛び、その炎に体は真っ黒焦げにされ、そして無傷で助かったと思っても放射線が全身を侵して、やがて血を吐き息絶えていった。

 広島・長崎の被害者は膨大な数となった。その調査報告を聞き、映像を見せられたりしたら、自分のやってしまったことの恐ろしさに心を引き裂かれない人間が果たしてこの世にいるだろうか。そう考えてみると、オッペンハイマーはよほど精神がタフだったのかもしれない。

 しかし2024年6月20日のニュースは、オッペンハイマーが「涙を流して謝った」という証言映像が見つかったと報じた。

 

 今回見つかった映像資料は、1964年に被爆者などが証言を行うためにアメリカを訪問した際、通訳として同行したタイヒラー曜子さんが2015年に語った内容を記録したもので、広島市のNPOに残されていました。

 この中でタイヒラーさんは、訪問団の1人で、広島の被爆者で理論物理学者の庄野直美さんなどが非公表でオッペンハイマーと面会した際の様子について「研究所の部屋に入った段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になって、『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった」と述べています。(NHKニュース2024.6.20)

 

 広島に原爆が落とされた時、庄野直美さんは九州帝大理学部の学生だった。広島に新型爆弾というニュースにもしや原子爆弾ではと不安になり、8日に両親の住む広島に向かった。列車が己斐駅に着いたのは9日の昼過ぎだった。

 

 両親の家をめざし、己斐橋を渡った私は、そこに異様な光景を見て立ちすくんだ。端から一直線に続く道路の両側に、火葬を待っているのであろう、ずらりと死体が並べられていたのである。それは既に腐敗を始め、悪臭を放っていた。左折して川沿いに進んだ私は、火傷で赤く染まり、あの水中に見る犬の死骸と同じように、破れんばかりに水ぶくれした人間の死体を無数に川の中に見た。道ばたの畠の中にも、子供や「もんぺ」姿の女性の死体がごろごろと横たわっている。(庄野直美『人間に未来はあるのか』勁草書房1982)

 

 庄野さんの両親は運良く無事だった。原爆が落ちる3日前に郡部に転勤になっていたのだ。しかし親戚の中には血を吐いて悶え死にした人もいた。「広島のガスを吸うたら死ぬそうな」という噂もとんだ。

 8月15日。母親の実家がある村でもラジオから無条件降伏の放送が流れた。ホッとしたという人、これから先が心配だという人。そして庄野さんが山の中で誰にも知られずに叫んだのは「万歳!」だった。ようやく自由な時代がやってくる。その予感に心が震えた。

 希望を見出したのは庄野さんだけではない。中国新聞記者の大佐古一郎さんはポツダム宣言受諾と聞いて、宣言発表を報じた新聞を引っ張り出した。宣言には、日本に平和と自由と民主主義が保障されるとあった。

 

 戦争に敗れたうえに、このような恩恵が本当に得られるだろうか。それとも日本人を奴隷にするための一時的な甘言ではなかろうか。いや、民主主義の国が二枚舌を使うはずはない。(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 

 大佐古一郎さんが半信半疑だったのは、それだけ新聞記者として世間を見てきたからだろう。