『オッペンハイマー』48 破壊された世界12 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 「マンハッタン管区調査団」団長のトーマス・ファレルが広島市内を視察したのは9月9日の午前中だけで、午後には飛行機で広島を離れた。しかし、それでも12日の記者会見では「残留放射能はない」と断言したのだ。

 実際はどうだったか。調査団の本隊が長崎に入ったのは9月20日で、10月6日まで医学的調査と放射線調査を行い、広島は別の班が10月3日から7日まで調査した。

 当時19歳の兵隊だったマイカス・オーンスタッドさんは広島での医学的調査に同行したが、それは彼にとってまるで悪夢のような体験だった。

 

 淡々と当時を振り返っていた彼が、突然、体を震わせ、声を絞り出すように語り始めた。「一九歳の自分にとって、ヒロシマの体験はとても耐えきれないものでした。あの時の光景、匂い、音が今もまざまざと蘇ります。被爆者たちの痛々しい姿、ボロボロに破壊された街。あの体験は、決して私の脳裏から、ひとときも離れることはないのです。

 毎日二四時間、私につきまとっています。眠っていても、夜中に目が覚めるんです。私はずっとヒロシマを抱えて生きてきたんです。今も、決してヒロシマは私の心から消えません」(NHKスペシャル取材班『原爆初動調査 隠された真実』ハヤカワ新書2023)

 

 被爆者からの聞き取り調査を担当したオーンスタッドさんにとって最も印象的だったのはスカーフを被った自分と同じ年頃の女性だったという。病院でスカーフをとったら、彼女の髪の毛が全て失われているのが目に飛び込んできた。

 オーンスタッドさんがいつ広島に入ったかの記述はないが、ファレルらとともに先発隊として9月9日に市内に入ったのではなかろうか。ファレルは9日に爆心地付近で放射能調査をしているが、それとは別に医療分野の調査班が日赤や宇品の陸軍病院分院、そして市内各所の救護所を10日まで視察し、11日には長崎に向かっている。(宇吹暁『ヒロシマ戦後史』岩波書店2014)

 オーンスタッドさんが病院や救護所を見て回った9月上旬といえば、被爆者が次々と亡くなっていた時期だ。広島駅近くの路上で被爆し大火傷を負った橋本くに恵さんが、8月12日に段原の「暁部隊」の救護所で手当を受けた時には右腕は腐りかけており、後一歩で腕を切断しなければならないところだった。そしてその後もまさに悪夢のような出来事が続いた。

 

 二十三日頃武装解除が伝達され、二十五日暁部隊は解散、兵隊はそれぞれ帰郷し、その後を県の衛生班が引き継いだが、医薬、食糧、水、看護人とそのほとんどが不足し、日に日に死者続出。校庭で屍を焼く異臭と哀哭にみち、酷暑に加え豪雨がつづいた。不潔はその極みに達し、赤痢が発生、うんか以上の蝿の襲来に困った。火傷は深部に至り、ざくろのようにうみ爛れ、身体は衰弱のため骨皮ばかりとなった。(橋本くに恵「忘れ得ぬ親切」広島市原爆体験記刊行会編『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 橋本さんが家族のもとで死にたいと思って救護所を出たのは9月下旬。それから兄夫婦の懸命の看護で奇跡的に回復していったが、床を離れることができたのは12月になってのことだった。