『オッペンハイマー』49 破壊された世界13 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 原爆の残留放射能はない、残留放射能の被害者もいないというアメリカ政府当局の公式見解とは別に、「マンハッタン管区調査団」の調査員にとって長崎や広島の残留放射線量、そして放射線による症状は重大な関心事だった。ドナルド・コリンズ中尉の証言が残されている。

 

 我々は、残留放射線がどのような値で残っているのか、同量の放射線の値を輪郭線で描くため、ジープを十字に走らせました。風下五一キロ地点では、通常の二倍もの残留放射線を計測しました。

(中略)

 我々は人間がどのくらい放射能を浴びると吐き気をもよおすのか、どのくらいで脱毛が起こるのかを分かっていました。我々は住民がどこにいたのかを聞いて、受けた放射線量を予測していました。

 今回の調査で、原爆について多くのことを学ぶことができました。しかし、その被害の実態を目の当たりにするのは、非常に痛ましかったです。(NHKスペシャル取材班『原爆初動調査 隠された真実』ハヤカワ新書2023)

 

 コリンズの言う「風下五一キロ地点」は島原半島の東端だ。日本政府は、長崎で指定した「被爆地域」外で「降雨があった客観的な記録がない」と言い張り、「黒い雨」被害者救済を拒否し続けている。しかし「マンハッタン管区調査団」は、日本政府の指定地域よりもはるかに遠い場所で放射能汚染があったことを明らかにしていた。

 その「マンハッタン管区調査団」が特に注目したのは長崎の「西山地区」だ。

 

 長崎で最も強いガンマ線が計測された場所は、原爆雲からの放射性降下物が落下した、市街地から約1.6km北東に位置する西山水源地付近であった。(『広島・長崎マンハッタン管区原子爆弾調査団最終報告書』1946 長崎大学原爆後障害医療研究所資料収集保存・解析部訳)

 

 その日、突然ピカッと光ったかと思うと、あたりは真っ暗になった。しばらくして強い雨が降ってきたが、それは大粒の、赤みがかった黒色の雨だったという。爆心地から3km離れ、その間に標高266mの山があったから熱線や爆風、それに初期放射線の被害は免れたものの、残留放射線は避けることができなかった。

 中尾恒久さんは当時10歳。20歳の頃に汗が多量に出て倦怠感に悩まされ、甲状腺機能低下症と診断された。それ以来、胃がん、膀胱がん、慢性閉塞性肺疾患。「我慢して、我慢してきよったですよ。病気の多か七六年でした」と中尾さんは語る。

 中尾さんたちは子どもの頃、血液検査を受けさせられていた。責任者は「マンハッタン管区調査団」医療部門チーフのスタッフォード・ウォレン。ウォレンの残した資料が今もUCLAの図書館に保存されており、中尾さんの血液検査記録もそこで見つかった。それに記された白血球の数は10,000から30,000。異常な数字だ。こうした白血球増加は全身被曝の後に白血病に進行する可能性を示すという。しかし、こうした検査記録が「西山地区」の人たちに示されることは一度もなかった。実際に若くして白血病で亡くなった人も出たというのに。17歳で発症し死亡した女性の主治医はこう証言する。

 

 「…やっぱりショッキングでした。あの頃は薬も何もない。だから、すごく悲惨。出血、発熱、感染症、苦悶の状態。やっぱりつらい思いをさせたと思います」(『原爆初動調査 隠された真実』)