『オッペンハイマー』43 破壊された世界7 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 オーストラリア人で、イギリスの新聞「デイリー・エクスプレス」の特派員だったウィルフレッド・バーチェットは、なぜ戦争が終わると一目散にヒロシマを目指したのだろうか。本人が述べる理由は極めてシンプルだ。「要は他の記者より早く、一刻も早く現場に行くこと、そしてそこで見たこと感じたことを、正確に読者に報告すること」だった。(ウィルフレッド・バーチェット著 成田良雄他訳『広島TODAY』連合出版1983)

 アメリカ海軍に同行して太平洋の戦場を取材して回ったバーチェットが、広島という場所に原子爆弾が落とされたというラジオニュースを聞いたのは沖縄の米軍食堂の中。この時、バーチェットは広島を日本本土での最初の目的地と決めた。

 バーチェットが東京で同盟通信社を訪ねた日ははっきりしないが9月1日か。一刻も早く広島へ行き、そこで何が起きたのか正確に報道したいから協力してほしいと外信部の職員に頼み込んだ。

 

 彼はびっくりして私を見つめて、「広島へ行こうなどという者は誰もいませんよ。あそこでは、誰もが死にかかっているんです」と言った。(『広島TODAY』)

 

 しかし、その言葉はバーチェットの記者魂を一層燃え立たせた。原爆が人類に対していったい何をしでかしたのか、その真相をどうしても掴みたかった。

 9月2日午前9時から東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号で降伏文書の調印式が行われた。各国の特派員が朝早く横浜のホテルを出ていく中、バーチェットは悪性の下痢になったふりをしてホテルに残り、一人東京駅に行って朝6時発の満員列車に潜りこんだ。

 途中で列車に乗ってきた将校たちからは殺意を感じた。真っ暗闇になるトンネルの中、刀で首を斬られたらどうしようと怯えながらの道中だった。東京駅を出てから20時間後に無事広島駅にたどり着いたのは、もしかしたら奇跡だったかもしれない。

 広島でバーチェットを信頼し協力してくれたのは同盟通信社の中村敏さん。そして県警察部の太宰博邦特高課長だった。バーチェットは中村さんから自身の被爆体験を聞き、太宰特高課長には広島逓信病院へ行くための車の手配をしてもらった。

 広島逓信病院でバーチェットは見た。

 

 私は自分のこの目でこの悲惨な光景を見なければならなかった。化膿している第三度の火傷を、出血している目を、歯ぐきを、そして、ほとんどの患者の頭のまわりに黒い光輪のように抜け落ちた髪の毛を見なければならなかったのである。このような犠牲者たちとその家族たちが私を燃えるような憎悪をもって見たのであり、その憎しみは私をナイフのように突き刺した。(『広島TODAY』)

 

 その日、広島逓信病院でバーチェットに応対したのは外科医の勝部玄さん。勝部さんはバーチェットに「帰りなさい、これ以上ここにいるのなら、私はあなたの命に責任が持てません」と英語で告げた。そして帰り間際にはこう言った。

 

 「どうぞ、あなたの見たことを報告し、あなたの国の人びとに——彼は当然のように私をアメリカ人だと思っていた——この病気に詳しい専門家を何人か送ってくれるように、そして彼らに治療に必要な薬を持たせてくれるように頼んでください。さもなければ、この人びとは皆、死ぬ運命にあるのです」(『広島TODAY』)