バーチェットの記事は同盟通信の広島支社からモールス信号で(当時すでに骨董品的な通信手段だったが、壊滅した広島からの送信方法はこれしかなかった)東京の本社に送られ、GHQの検閲をすり抜けてロンドンに転送された。そして、「30日後の広島 生きのびた人たちが死んでいく 原子の疫病の被害者 世界への警告として私はこれを記す」と見出しが付けられて9月5日のデイリー・エクスプレス紙に掲載され、世界に大きな衝撃を与えた。次の記事本文は『広島県史 原爆資料編』所収の小倉馨さん訳によるものだ。
ヒロシマ、火曜日
最初の原子爆弾が街を破壊し、また世界を震駭して、30日後の広島では、人がなおも死んでゆく。それは神秘的な、そして恐ろしい死であった。その人たちは、あの大激変の時に無傷であったというのに、何ものかわからない、私には、原爆の疫病としか描写するほかない何ものかによって死んでゆく。
(中略)
これら病院には、爆弾の落ちたとき、全然傷を負わなかった者が今や、薄気味悪い後遺症で死んでゆく人たちがいた。
はっきりした原因もなく、どんどん病弱になってゆく。食欲がなくなる。髪の毛が抜ける。体には青い斑点が現われた。そして耳、鼻、口からは出血した。
医者がいうには、最初これらは、一般の衰弱の兆候だろうと思ったという。患者には、ヴィタミンAの注射をした。結果はおそろしいものだった。注射針でできた穴の所から皮膚が腐りはじめた。そしてそのいずれの場合も、被爆者は死亡した。
(中略)
過去3週間の間、ほとんどの日本の科学者は広島を訪れ、人々の苦しみを治す方法を見出そうと努力した。今やその人たちもまた被害者となった。原爆が落ちて最初の2週間、この科学者たちは、この陥落した市内に長く留まることができないことが分かった。時折り目まいを起こしたり頭痛がしたりする。ちょっとした虫にさされると、そこが大きく腫れあがり治らない。
そして健康状態がゆっくりと悪化していった。
(中略)
すべてこれらの現象は、彼らが私に語るには、ウラニウム原子の核爆発により放出された放射能に帰因しているとのことである。(ウィルフレッド・バーチェット「原子の疫病」『デイリー・エクスプレス』1945.9.5 『広島県史 原爆資料編』)
バーチェットは「原子の疫病」に焦点を絞った。残留放射能による被害があることも指摘した。それはアメリカ軍の将校に引率され、アメリカの飛行機に乗ってやってきた連合国の記者団の視点とは明らかに異なっていた。同じ9月5日付で「ニューヨーク・タイムズ」紙に掲載された記事の見出しはこうだ。
広島を訪問 世界で最も破壊された都市だった
原爆によって4平方マイル(約10平方キロ)が完全破壊
一日に100人亡くなっているという
我々に対する憎しみを感じた(井上泰浩『アメリカの原爆神話と情報操作』朝日選書2018)
この記事では、原爆の破壊力のものすごさが強調されるばかりで、読者に放射能への関心を持たせるものではなかった。それは「ニューヨーク・タイムズ」がアメリカ政府・軍部の意向にいかに忠実であったかを如実に示していた。