『オッペンハイマー』41 破壊された世界5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 映画の原作によると、広島・長崎から戻ってきた「マンハッタン管区調査団」の二人の科学者の報告にロスアラモスの人たちはショックを受けた。「わたしは愕然とした。家に帰っても寝つくことができなかった。わたしは一晩中震えていた」と語った人もいる。(カイ・バード マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー(中)原爆』ハヤカワ・ノンフィクション文庫2024)

 それはこんな報告だったという。

 

 「熱い閃光によって、突然にそして異様に焼かれた。彼ら(日本人)は、皮膚が縞模様に焼き付いた着物を着た人の話を我々にした。わずかに負傷しただけで、廃墟から這い出ることができ、幸運を感じた人も多くいた。しかし、彼らもいずれ死んだ。爆発の瞬間に、大量に放射されたラジウムのような光線によって、何日か何週間か後に彼らは死んでいった」(『オッペンハイマー(中)原爆』)

 

 オッペンハイマーも報告を聞いたようだ。原作には写真を見たとは書いてないが、原爆の熱線を浴びて焼けただれた人の話を聞くだけでも、自分がやってしまったことの罪の重さに気づかされたに違いない。

 オッペンハイマーが見たかどうかはわからないが、広島・長崎では被爆直後から写真を撮ってまわった人たちがいた。木村権一さんもその一人だ。木村さんは宇品にあった陸軍船舶練習部に所属する写真班員だった。

 

 被爆の日から数日後、東京から都築博士一行が船舶練習部に来られた時、放射能で死亡する者を重点的に写真撮影するよう依頼された。私は部隊の上司の許可を得て、博士と同伴し、キャビネの組立暗箱を持って、たくさんな負傷者の中を立廻ったが、中には撮影中に死んでいく者もあって、心ふさがる思いをなめた。負傷者の多くは兵士や軍属で、約五日間ぐらいのうちに六ダースばかり撮った。その中から最も研究資料になる写真を、博士がネガのまま東京へ持帰えられた。(『広島原爆戦災誌』) ※都築教授の来広は実際には8月30日

 

 その写真の一枚が、上半身裸になった女性の後ろ姿だ。着物の柄の濃い色の部分が熱線を吸収し、皮膚に焼きついている。(広島平和記念資料館データベース)

 撮影は東京帝国大学の都築正男教授の指示で行われたが、GHQの命令で、日本側が撮影・調査した写真や記録類の多くがアメリカ側に提出させられた。着物の柄が焼きついた人の写真もその中の一枚だったに違いない。

 戦争が終わってからも原爆の放射能で殺される人たちが続出したが、木村さんは、放射線障害の証拠となる写真を重点的に撮ったとある。その中の一枚は広島平和記念資料館の展示の中でも印象的な写真の一つだ。

 当時21歳だったその兵士は、爆心地から1㎞の兵舎内で被爆した。その時は切り傷だけだったが、8月18日になって髪の毛が抜け出し、皮膚に斑点が出たのは29日。翌日に宇品の陸軍病院に入院したが、31日から発熱し、血の斑点が上半身や顔に無数に現れた。9月2日にはうわごとを言いだし、3日夜に死亡した。木村さんが写真を撮ったのは、この兵士が亡くなる2時間前のことだった。

 放射能による多数の死は、オッペンハイマーをもっと追い込んだのではなかろうか。彼は放射能について隠し事をしたのだから。