『オッペンハイマー』40 破壊された世界4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 アメリカの大学で倫理学を教える宮本ゆきさんの批評も手厳しい。

 

「…幻視のシーンについても、犠牲者が現に存在し、その痛みを訴え続けているにもかかわらず、なぜ彼の『想像の中の被害』を見させられなければならないのでしょう。広島と長崎で実際に起きたのは、あの幻影よりも遥かに悲惨で、内部被ばくなども含め長期にわたる被害です」 (「ハフポスト日本版」2024.3.31)

 

 オッペンハイマーの見た幻影は、彼の恐怖心から生まれたものだろう。原爆がどんなものかがわかったらもう戦争なんかできっこないというオッペンハイマーの期待ははずれ、残るは自己嫌悪と、そして核による人類滅亡の悪夢だ。将来、自分たちはどんな目に遭うのかを、ノーラン監督はオッペンハイマーに、そして映画の観客に見せたのだと思う。

 原爆の熱線をまともに浴びたらどうなるか、そしてその後の大火災で人はどんな姿にされるか。私は、ちゃんと描かれているように感じたのだが、放射能については前に書いたように、被爆当日に出てくる症状は嘔吐だ。映画でも嘔吐する人間が出てくる。原作では、自分の犯した罪の重さに酔っ払わずにはいられない物理学者の姿だったが、ノーラン監督はそれを被爆者の姿に重ね合わせたのではなかろうか。

 けれど、観客の側がどれだけ「リアル」に受け止めることができるかは別問題だし、それに原爆の悲惨さは確かに一瞬のことだけではない。宮本さんが言われるように「長期にわたる被害」が問題だ。被爆した人たちにとって原爆に遭った苦しみは、自分の命が尽きるまで消えることはない。それはどのように描けるだろうか。

 映画では、原爆投下後に科学者たちが被爆地の映像を見る場面があるが、映画のスクリーンに映るのは、被爆の惨状を直視できず、うつむいてしまうオッペンハイマーの姿だった。宮本さんは言う。

 

 「観客は、オッペンハイマーの前にあったフィルムがどんな被害を写しているのかはわかりません。監督の説明であれば『彼の主観』だから、ということになるでしょうが、その被害の様子を観客と共有することも、選択肢としてあったのではないかと思わざるをえません。(「ハフポスト日本版」2024.3.31)

 

 私は、オッペンハイマーの悔恨の心情に焦点を当て、それでも永久に赦されることはないのだという結末に持っていくのは有りだと思った。妻キティがオッペンハイマーと彼の恋人ジーンの幻影から目を逸さなかったように、私たちも映画の最後までオッペンハイマーと向き合うべきだと思う。オッペンハイマーの一挙手一投足から何を感じ、そしてそこから何を自分の課題とするかだ。被爆の惨状から目を逸らす場面にしても、オッペンハイマー個人の弱さとかではなく、それがアメリカという国の有り様なのではないか、アメリカだけではない、日本の私たちのヒロシマ・ナガサキへの向き合い方ではないかとも感じるのだ。

 今月、アメリカの「被曝者補償法」が失効した。ネバダ核実験場周辺の住民などへの補償に加え、新たにトリニティ核実験により健康被害を受けた人たちなどへの補償も行われるはずだったのに、補償総額が莫大な金額になるということで下院での可決ができなかったというのだ。(「中国新聞」2024.6.12)

 アメリカのヒバクシャは、今も目を背けられている。