『オッペンハイマー』39 破壊された世界3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 映画の中で、オッペンハイマーは自分の足元に真っ黒焦げの死体が転がっている(踏んづけていた?)幻影を見た。

 広島の爆心地に最も近い場所で最も早い時間に人の死を目の当たりにし、その証言を残しておられる方は野村英三さんで間違いなかろう。爆心地からの距離170mという至近距離の燃料会館(現 平和公園レストハウス)。その地下室で被爆した野村さんが建物の外に飛び出した時、原爆のさく裂から数分しか経っていなかったと思われる。

 

 外は真黒い煙で暗い。半月(はんげつ)位の明るさだ。よくみると、広瀬の顔や手から 血が流れている。急いで元安橋のところへ来た。ふと橋の上をみると、中央手前のあたりに、まる裸の男が仰向けに倒れて、両手両足を空に伸ばして震えている。そして左腋下のところに何か円い物が燃えている。(野村英三「爆心に生き残る」『広島原爆戦災誌』)

 

 元安橋の中央あたりとなると爆心地からの距離は120mだが、その人がどこで被爆したかはわからない。しかし「まる裸」ということは、原爆の熱線を至近距離でまともに浴び、服が一瞬のうちに焼け焦げて吹き飛んだのだろう。それで野村さんが描いた「原爆の絵」を見ると、裸体の色は「黄土色」。実際どうだったかはわからないのだが、少なくとも、「黒焦げ」という記憶はなかったことになる。

 これが、火災が数時間続いた後になると、至る所に黒焦げの死体が散乱した。当時「暁部隊」に所属していた義之(ぎし)榮光さんは6日の正午ごろ、特攻用のモーターボートに乗って川を遡り、産業奨励館の前で上陸した。

 

 産業奨励館(現・原爆ドーム)であったんですよね。「奨励館の所へ出て来たな」と、その時はもうボーンボーンと燃えているわけです。燃えているのはいいんだけども、人の姿が何も見えない。「これだけの街の中で、人の姿が見えないというのは、いったいこれはどういうことなんだ」と。

 それでよくよく見ると焦げてね、真っ黒焦げになったものがボコンボコンとある。「これは人でないのか」と、「そうらしい」と。「ええ? 人ってこんなに黒焦げになるものか?」と。(義之榮光「投下直後の広島で見たもの」NHK戦争証言アーカイブス)

 炭化した死体は、パッと見には人間と気づかないものらしい。

 三好茂さんは、今は平和公園となっている材木町で我が子を捜した。

 

 昨夜、夜を明かした川岸へ出て、そこを伝って公設市場の前へ行く。数人ばかりの、男か女かわからない子どもが、犬ころが焼け死んだのと見まちがうばかりに、黒く茶色にかちかちになって死んでいた。蒸し焼きにあったのか、まるくなって死んでいる。この中にいるのか、いやわからない。どこの子かも判断できなかった。かわいそうに、こんな幼い子までも爆弾の犠牲になって……自然と手が合わさる。(志水清編『原爆爆心地』日本放送出版協会1969)

 

 映画でオッペンハイマーが見た黒焦げの死体は「恐怖」そのものだったろう。でも三好茂さんは、子どもの亡骸を見て心の底から悲しみの気持ちが湧き出ていた。私たちが戦争や原爆の映画を見るときも、「怖い」ではなく、痛ましいと思う心がいるんじゃなかろうか。そんな映画が今、必要なんじゃなかろうか。