『オッペンハイマー』33 ヒロシマ ナガサキ5 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 原爆の惨禍、そして「終戦」。戦争がもっと早く終わっていればという思いを持ったのは原邦彦さん一人ではなかった。原邦彦さんの叔父にあたる原民喜が小説に書いている。

 

 台所にゐた妹が戻つて来た私の姿を見ると、

「さつきから『君が代』がしてゐるのだが、どうしたのかしら」と不思議さうに訊ねるのであつた。

 私ははつとして、母屋の方のラジオの側へつかつかと近づいて行つた。放送の声は明確にはききとれなかつたが、休戦といふ言葉はもう疑へなかつた。私はぢつとしてゐられない衝動のまま、再び外へ出て、病院の方へ出掛けた。病院の玄関先には次兄がまだ呆然と待たされてゐた。私はその姿を見ると、

「惜しかつたね、戦争は終つたのに……」と声をかけた。もう少し早く戦争が終つてくれたら――この言葉は、その後みんなで繰返された。彼は末の息子を喪つてゐたし、ここへ疎開するつもりで準備してゐた荷物もすつかり焼かれてゐたのだつた。(原民喜「廃墟から」1947)

 

 中国新聞記者の大佐古一郎さんは15日の夜、母親からその言葉を聞いた。

 

 「なんでひと月ほど前にやめとかなんだかのう。もっと早うやめとったら、あのむごい大勢の人殺しはなかったし、孫の病気がぶり返すこともなかったろうに……。勝つ見込みもないのに無理をし過ぎたんじゃ。……人間無理をすると、必ずばちが当たる」(大佐古一郎『広島昭和二十年』中公新書1975)

 

 1945年5月にドイツが無条件降伏し、そのころの日本はといえば沖縄戦の敗北は明らかだった。6月8日の御前会議では、民心の動向について「軍部及政府に対する批判逐次盛(さかん)となり」と報告されている。それで昭和天皇は次の6月22日の御前会議になってやっと、戦争終結工作に着手すべきとの意思を示したが、それからはソ連が和平仲介してくれるのを期待して待っていただけだった。

 8月6日に第二総軍司令部などから、広島が大きな被害を受けたという報告が届き、7日午前1時過ぎにはトルーマン大統領の声明でアメリカが使ったのは原爆だという情報を得た。しかし大本営が本格的に動き出すのは7日朝から。大本営の河邉虎四郎参謀次長は日記にこう書いた。

 

 出勤早々昨六日朝ニオケル広島ニオケル新爆弾ニヨル空襲ノ諸情報ヲ見、深刻ナル刺激ヲ受ケタリ…ネバラン哉、頑張ラン哉。(御田重宝『もう一つのヒロシマ』中国新聞社1985)

 

 「これでもう終わりだ」と書かないのは軍人だから? 詳細はまだ不明ながらも、一発の爆弾で広島市が壊滅したのは明らかだった。それでもまだ「ネバラン哉、頑張ラン哉」なのだ。

 考えてみれば、すでに東京も大阪も名古屋も、そして沖縄も壊滅し、多くの人命が失われた。それでも軍部はまだ「一億玉砕」を掲げて戦おうとしていたのだ。広島への原爆投下を聞いて軍部ははたして敗北を覚悟しただろうか。またトルーマン声明の、「この地上に曽て類を見ざる如き荒廃の雨」がこれからも降り続くという警告をどれだけ深刻に受け止めただろうか。

 7日、8日と政府内では対策会議が開かれることなく、そして迎えた9日、午前4時にタス通信がソ連の宣戦布告を伝えた。そして午前11時2分、長崎市の上空でニ発目の原爆がさく裂した。