『オッペンハイマー』32 ヒロシマ ナガサキ4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 放射線を浴びたことによる障害「原子爆弾症(「原爆症」)は、目に見えないところで進行する。被爆したその日の嘔吐は一旦おさまるが、それはしばらく生き延びた人の話だ。市内中心部で救護や遺体収容にあたった陸軍船舶練習部第十教育隊の斉藤義雄隊長のところに、ある晩、部隊付きの軍医が飛び込んできた。

 

 ある晩、報告に来た内田大尉が、憤然として「部隊長殿、戦争には負けられませんよ。今度の爆弾は実に非人道的なものです。死体の解剖所見によると胃袋の内部を、ワイヤーブラッシでこさいだようになっていたものや、内臓の小さな管までも血液で閉塞していたもの等、真に残忍なものです。」と話した言葉が、今も忘れられない。(「被爆者救護活動の手記集(暁部隊)」『広島原爆戦災史 第五巻』)

 

 胃や腸の粘膜が放射線で壊死していたのだ。そして内臓に多量の出血もあった。広島逓信病院では、8月18日に一人の女性が入院した。女性は爆心地から700mの八丁堀の路上で被爆し、避難する途中で数回嘔吐した。それから3日間はひどい倦怠感や下痢に悩まされ、それが少し良くなったと思ったら18日になって再び悪化、全身に皮下出血の斑点が出た。入院した時は白血球が極度に減少しており、髪の毛は全部抜け落ちていた。

 女性が息を引き取ったのは26日。すぐに解剖したところ、胃や腸、肝臓にも出血斑が見られ、腹腔には血が大量にたまっていた。

 

 私は死体解剖を見て痛んだゆえんがわかった。胃腸や肝臓腹膜の粘膜下出血斑をみて、斑点は体の表面ばかりではない、五臓六腑体中どこでもでていることがわかった。私は解剖を見学して恐るべきは斑点だ、斑点が体の中の主要部へただ一個できても最後だと思った。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』朝日新聞社1955)

 

 細胞分裂が活発な骨髄が放射線にやられると、やがて白血球が激減する。そうなれば感染症を防ぐことは難しく高熱が出る。赤血球が減ったら貧血だ。そして血小板がなくなってくると、体の痛んだところはどこもかしこも血が出て止まらくなり死にいたる。だいたい被爆の一週間後くらいから症状が出るようだ。

 広島一中1年生の原邦彦さんが体の異変に気付いたのは8月16日だった。髪の毛が全部抜け落ち、体のあちこちに赤い斑点が出た。次の日になると鼻血が止まらなくなり、熱は42度まで上がった。でも意識ははっきりしていて、医者が「あと一呼吸で終りですよ」と言うのが聞こえた。

 それでも不思議に絶体絶命の危機を逃れた原さんは手記にこう書き記す。

 

 私が家族と再会して二日目に戦争は終った。玉音放送を聞いた時、もう少し早ければ、広島もあんな事にならずにすんだのに、亡くなった方々は、何故あの様な死に方をしなければならなかったのか、どんなに考えても無意味に感じられ、只々残念でならなかった。(広島県立一中被爆生徒の会『ゆうかりの友』1974)

 

 そして原爆が遠くなってくると「人間の心がまた、過ちを繰り返すのではあるまいか」という不安を感じ、原さんは遺族から聞き取った同級生一人ひとりの最後を一冊の本『ゆうかりの友』にまとめた。原さんが放射線によると思われる肺がんのため43歳の生涯を閉じたのは、その翌年のことだった。