『オッペンハイマー』31 ヒロシマ ナガサキ3 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 日本政府の抗議文には広島の原爆について書かれていないことがあった。「爆風および輻射熱により無差別に殺傷せられ」とあって、放射線による被害にはふれられていない。その時はまだ誰も知らなかったのだ。

 原爆がさく裂する際に出る初期放射線は、爆心地から1km未満でまともに浴びたら死亡率100%とされる。意識がなくなって死にいたると言われるが、目撃証言はないようだ。放射線と同時に強烈な熱線と爆風にみまわれ、一瞬のうちに命を奪われるからだろう。

 生き延びた人の体験談や目撃証言からすると、被爆後にいち早く現れた放射線障害は嘔吐だった。爆心地から約900m離れた広島一中の校舎内で被爆した片岡脩さんは、崩れ落ちた木造校舎の下から脱出した頃から嘔吐が始まった。力が出ない。全身焼けただれた二人の同級生を両肩で支えて避難するのだが、途中で何度もへたばってしまった。

 

 比治山の橋までたどりついた時、私たちは救援隊のトラックにひろわれた。私はトラックの上でも、車体の動揺につれて、終始吐きつづけていた。胃袋が完全に空になるまで、そして私が動けなくなるまで吐きつづけた。(長田新編『原爆の子 広島の少年少女のうったえ(下)』岩波文庫)

 

 それでも吐き気はその日のうちに治ることが多かったのだが、下痢の症状は出るとしばらく続き、発熱とともに全身衰弱して死に至ることもあった。嘔吐も下痢も胃腸の粘膜が放射線で傷ついたためだろうが、広島逓信病院など重傷者が押し寄せたところは大変なことになった。院長の蜂谷道彦さんが手記に書いている。

 

 嘔吐、下痢が甚だしくて、歩けぬ患者は大小便はもとより吐瀉物まで床の上へそのままにし放しだ。歩行可能な者は手さぐりで玄関口や裏口に出て放尿、排便する。それを人がふむ。またする。またふむ……一夜のうちに病院の出入り口は糞まみれになった。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』朝日新聞社1955)

 

 当時は誰も放射能なんて知らない。吐いたのは毒を吸ったからではないかとか、血の混じった下痢便は赤痢ではないのかとか、生き残った人たちはパニックに陥るのだった。

 東京から駆けつけた陸海軍の調査団が、広島に投下された新型爆弾はたしかに原子爆弾だと確認したのは8月10日だったが、「原子爆弾症」という診断が初めて出たのは8月24日になってのことだった。

 仲みどりさんは移動演劇隊「桜隊」の俳優で、爆心地から約750mという至近距離にあった宿舎内で被爆。崩れた建物の下から這い出して近くの京橋川まで逃れた時、激しい嘔吐に襲われた。10日になって東京に逃げ帰り、16日に東京大学病院を受診した。仲さんのカルテは次のように記された。

 

 16日 東京大学旧第二外科に入院。体温は37.8度。白血球数は通常の10分の1の400

 17日 脱毛が始まり、背中の傷が急に悪化

 19日 体温39度に上がる

 21日 体温40度近くに。17時から25分間、悪寒と戦慄が続く。輸血

 22日 白血球数300に減少。傷の周りに感染性の潰瘍できる。輸血

 23日 注射を刺した部位に感染性の潰瘍。米粒大の出血斑があちこちに出る。輸血

 24日 体温40.4度に。午後0時30分死亡(「朝日新聞」2013.8.4)

 

 仲さんの遺体はすぐに解剖され、「原子爆弾症」という病名がつけられた。