『オッペンハイマー』34 ヒロシマ ナガサキ6 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 山口彊(つとむ)さんは当時、長崎の三菱造船所に勤めており、広島の三菱造船所へ出張中に原爆に遭った。爆心地から3kmばかり離れた場所だったが、爆風で左の鼓膜が破れ、顔や左腕に大火傷を負った。

 翌日、己斐駅から列車に乗って8日昼近くに長崎に着き、9日、高熱による悪寒を感じながら出勤した。

 

 …職場では、私の異様な包帯姿が注目の的となり、広島から生きて帰った証人として、質問の矢が浴びせられた。(中略)広島の被害について、ただ一発の爆弾で全滅などとは信じられないと言っている時であった。「ピカッ」と閃光がした。私は、本能的に広島のあれだと、そのまま机の下に飛び込んだ。

 轟音がして爆風が直ぐ室内を吹き巡った。十センチメートル先も見えない程のゴミと図面や事務書類が乱舞した。爆煙が薄れると散乱した椅子や図面などを掻き分けて、別館の窓から飛び出すと、後の岩山の崖をよじ登った。無我夢中であった。岩山の上のコンクリ-トの防空監視塔では、双眼鏡をブッ飛ばされた若い監視員が、真赤に焼けて倒れていた。(中略)

 浦上方面の上空には広島で見た茸状の雲が、広島からここまで遥々逃れて来た私を冷笑するかの様に、不敵に立ち昇っていた。(山口彊「ヒロシマ・ナガサキ―死と灰の町―」『広島原爆戦災誌』)

 

 長崎の三菱造船所は爆心地から3.3km離れていた。

 長崎に原爆が投下された時、日本政府の首脳は会議の最中だった。広島の原爆に続いてソ連が参戦した。これでソ連の仲介により少しでも有利な講和をしたいという望みははかなく消えた。残された道は、最後の一兵となるまで戦って軍部のメンツを保つか、それともポツダム宣言の無条件降伏を呑むかのどちらか。けれど話はまとまらない。長崎に原爆が落とされても、それで大きく議論が進展したわけではなかった。

 閣議では、これ以上戦争を続けるのは困難だという意見も出ている。石黒忠篤農商大臣は、今年は昭和6(1931)年の凶作に匹敵すると発言している。1931年といえば、宮沢賢治が「雨ニモマケズ風ニモマケズ…サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と嘆いた年だ。

 日本中が爆弾と焼夷弾の雨にさらされ、海上輸送も壊滅的な状況で食糧の流通がマヒしていた中、さらに大凶作が重なれば、最後の一戦を戦う前に国民は餓死してしまいかねない。

 しかし陸軍はあくまでも無条件降伏に反対の立場を貫いた。アメリカ軍を「本土決戦」に引きずりこめば、国民は「一億一心」となって決起し、どこかで大打撃を与えることもありうるのだとか。

 実は、軍首脳も戦争を続けることの困難なことは重々承知していた。武器のないことはよくわかっていたのだ。それでも陸軍のトップである梅津美治郎参謀総長はこう呟いたと記録されている。

 

 「降参ハシタクナイ、殺サレテモ参ッタトハ云ヒタクナイ」(防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 大本営陸軍部(10)』朝雲新聞社1975)

 

 軍部としては最後になんとか一花咲かせたいという思いがあったのだろう。これでは原爆が何発落とされようと、軍首脳の心が揺らぐことはなかったのではあるまいか。