『オッペンハイマー』29 ヒロシマ ナガサキ1 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島に原爆が投下されて16時間が過ぎたころ、トルーマン大統領の声明が発表された。日本政府がアメリカのラジオ放送で知ったのは日本時間7日午前1時ごろだった。

 声明はこう述べていた。「7月26日にポツダムで発表された宣言は、完全な破滅から日本国民を救うための最後通告だった。日本の指導部はそれを直ちに拒否した」と。 (NHKアーカイブズ「広島への原爆投下を伝える米大統領の声明(抄)」)

 当時、日本政府内にもポツダム宣言をすぐに受諾すべしという意見はあったようだが、鈴木貫太郎首相は特使派遣についてソ連からの返答を待つつもりだった。しかし翌27日、新聞記者を前に、「ただ黙殺するだけである。われわれは断固、戦争完遂に邁進するだけである」と発言してしまった。

 「黙殺」とはノーコメントの意味だったといわれるが、続けて「戦争完遂」と言っているのだからポツダム宣言の拒絶と取られてもしようがなかったと思う。それで宣言の言う「完全ナル壊滅」が現実のものとなってしまった。

 広島市壊滅の一報は6日のうちに大本営に届いた。だが、それが原爆によるものだということはトルーマン声明で初めて知るのだった。そして声明は続けてこう警告した。

 

 今やわれわれには日本が地上の如何なる都市に有する生産企業をも一層急速且つ、完全に抹殺し尽す用意がある。われわれは彼等のドック、工場並びに通運施設を破壊するであらう。もしそこに何の失敗もなければわれわれは完全に日本の戦争遂行力を破壊するであらう。(中略)もし今にして彼等がわれわれの条件を受け入れないなら、彼等はこの地上に曽て類を見ざる如き荒廃の雨を空中から期待すべきであろう。(「トルーマン声明」『広島県史 原爆資料編』)

 

 日本はすでに東京、名古屋、大阪など各地で爆弾、焼夷弾の雨を浴び、とんでもない数の死傷者が出ていた。しかし、それでも政府は戦争を続けたのだ。広島が壊滅したからといってすぐに白旗を掲げるつもりはなかった。ただ、日本全土に原爆を落とされて戦争遂行力が完全に失われてしまうことだけは勘弁してほしかったかもしれない。

 7日になって陸軍は調査団を広島に送った。広島で何があったのか、本当に原爆なのか確かめるためだったが、理化学研究所の仁科芳雄博士が同行し、10日に現地の陸海軍合同会議で判断を下した。広島に投下されたのは原子爆弾に間違いないと。

 ところで、トルーマン声明を訳したのは同盟通信だが、「日本の重要な軍事基地広島」に原爆を落としたと訳している。私も訳してみた。“…dropped one bomb on Hiroshima and destroyed its usefulness to the enemy” 私の直訳は、「広島に一発の爆弾を落とし、敵にとっての広島の有用性を破壊した」。

 軍事基地や軍需工場を攻撃したとストレートには言っていないのだ。実際には中国軍管区司令部と配下の部隊は全滅したが宇品の「暁部隊」は残り、そして宇品の軍港といくつかの大規模な軍需工場はほとんど無傷だった。となると、「有用性」を都市機能の意味にとる方が事実との整合性がある。

 トルーマン声明は、原爆を落としたのは広島という都市だという事実を曖昧にし、一般市民を大量虐殺したことに口をつぐんだのだ。