ポツダム滞在中のスティムソンにとって原爆に関する懸案事項は他にもあった。
7月21日夜遅くにアメリカから電報が届いた。それまでのスティムソンの決定を覆し、京都を原爆投下目標とするようよう求める内容だった。彼はすぐさまそれを拒否する電報をうっている。
広島市の場合、当時は市内のどこにコンパスの針を置こうとも、半径2.4kmの円内が全て家屋で埋め尽くされることはなかった。その点、京都は当時人口100万人をこえる大都市であり、平坦で十分な広さの市街地があった。爆心地からどれくらい遠方まで原爆の破壊力が及ぶのかに強い関心を持つ軍人は多かっただろう。グローヴスは上司のスティムソンに、京都を最初の原爆投下都市とするよう何度も説得を試みている。
私はとくに目標としての京都に執着を覚えたのだが、それは既述のように、われわれが原爆諸効果の完全な知識を入手するためにはまたとない広さを持っていたからである。(レスリー・R・グローヴス『私が原爆計画を指揮した マンハッタン計画の内幕』恒文社1964)
7月24日、スティムソンはこの件についてトルーマンと話し合った。
私が、もし除外しない場合には、そのようなむちゃな行為は反感を招き、戦後、長期にわたってその地域で日本人に、ロシア人に対してではなく、むしろわれわれに対して友好的な感情をもたせることが不可能になるのではないか、と提言したところ、大統領は、とくに力をこめてこれに賛同した。(「スチムソン日記」山極晃 立花誠逸編『資料マンハッタン計画』大月書店1993)
こうして7月25日に出された「原爆投下命令書」には、投下目標として、広島、小倉、新潟、そしてそれに長崎が付け加えられた。
スティムソンは戦後のアメリカとソ連との関係に神経を尖らせていた。日本に対する降伏条件を決める際に天皇制の存続を考えたのは、日本が降伏しやすいようにではなく、「ロシアおよびロシアの思想がいとも簡単に入り込んでくる真空状態を日本につくる」(「標題のない手書きのメモ」山極晃 立花誠逸編『資料マンハッタン計画』大月書店1993)ことがないようにするためだった。
京都を原爆で破壊してしまったら、日本人はソ連が「満州」を席巻する以上の反感をアメリカに対して持ち続けるだろうとスティムソンは心配したのだ。京都を外したのは、映画にあったような個人の懐かしい思い出からではなかった。
しかしそうなると、広島の市民の命と文化は京都と比べると取るに足らないものとなってしまう。どうしても、どこかの都市を完全に壊滅させることになるのだが、それとアメリカの「人道主義」との折り合いをどうつけるというのだろう。
トルーマンが日記にこう書いている。
この兵器は、今から八月一〇日までの間に日本に対して使用される予定である。私は、陸軍長官スチムソン氏に対し、女や子どもではなく、軍事施設および陸海軍将兵を目標としてこの兵器を使用するよう伝えてある。(「トルーマンのポツダム日記」山極晃 立花誠逸編『資料マンハッタン計画』大月書店1993)
こうして無知なトルーマンは、誰もが知る日本の古都でも首都でもなく、ヒロシマという名の「軍事基地」に原爆を投下することを命じた。