『オッペンハイマー』26 ポツダム1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 1945年7月16日、ニューメキシコ州中部の砂漠地帯で現地時間の午前5時29分45秒、世界で初めて原子爆弾がさく裂した。その第一報がトルーマン大統領の滞在するドイツのポツダムに届いたのは、陸軍長官スティムソンの日記によると、その日の午後7時30分だった。トルーマンはその前日にソ連のスターリンから対日参戦の確約をとり、17日の日記にこう書いている。

 

 彼は8月15日に対日戦に参加するだろう。そうなれば日本はおしまいだ。

 私たちは昼食をとりながら打ち解けた会話を交わし、賑やかに一同の健康を祝して乾杯したあと。裏庭で写真撮影をした。私はスターリンを相手にできる。彼は正直だ。しかし、えらく抜け目のない男だ。(「トルーマンのポツダム日記」山極晃 立花誠逸編『資料マンハッタン計画』大月書店1993)

 

 この時トルーマンは、「満州」や朝鮮半島に展開する日本の軍隊をソ連が相手にしてくれることになったのでホッとしたのだろう。核実験の成功が当面の戦争やこれからの世界情勢にどのような影響を及ぼすかを彼なりに理解したのは、アメリカからより詳しい報告が届いた18日のことだった。

 そのころ、日本は和平交渉の仲介を求めて特使の派遣をソ連に申し入れていたが、18日、スターリンはそのことをポツダムでの会議で明らかにし、はっきり拒否するつもりだと言った。ここに日本の「国体護持」を前提とする講和は米・英・ソの合意のもと密かに拒否され、ソ連の対日参戦による領土拡張があらためて容認されたことになる。

 21日の昼前、グローヴスからの詳しい報告書がポツダムに届いた。実験は大成功で、原爆は事前の予想を遥かに上回る破壊力を持っているとのことだった。それは間違いなくトルーマンに自信を与え、スターリンの好き勝手にはさせないという気持ちが態度に現れた。トルーマンは思った。原爆を使えば、ソ連の手を借りずとも日本を降伏させることができるのだと。

 24日、一連の会議が終わった後でトルーマンはスターリンに近寄り、一言告げた。

 

 「今までにない破壊力を備えた新しい武器を持っていると、わたしはスターリンにさりげなく伝えた。ロシアの首相は、特別な関心を示さなかった。彼が言ったのは、それは結構、日本に対してうまく使ってほしいと言うことだけだった」(「トルーマン回顧録」 カイ・バード マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー(中)原爆』ハヤカワ・ノンフィクション文庫2024より)

 

 トルーマンは、「スターリンは私が何の話しをしているのか分からなかった」のではないかと思ったが、しかし、その判断は間違っていた。スターリンは賢くなかったのではない。正直でなかっただけだ。ソ連はすでにアメリカの原爆開発の情報を密かに仕入れており、スターリンは何もかもお見通しだったのだ。

 トルーマンの原爆についての簡単な伝言は、ソ連に秘密裏の原爆開発と対日参戦を急ぐための鞭を入れる効果しかなかった。アメリカとソ連の秘密主義は強固なままであり、オッペンハイマーが、ポツダムで戦後の核兵器開発競争を防ぐための率直な議論を期待していたとしたら、それは夢のまた夢の話だった。