『オッペンハイマー』23 トリニティ14 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 「これが原爆か」と体でわかった時はもう遅いので、できる限り原爆とは何かを感じてもらえるような発信をしなければならないが、どうにも伝えられないことだってある。なんとか伝えようと表現しても、結果的には惨状の矮小化にしかならないこともある。でも、伝えることを諦めたら、核兵器はいつか出番が来るその日まで、日常から姿を隠すのだ。

 トリニティ核実験を目撃した科学者の一人ジョー・ハーシュフェルダーはこう記している。

 

 「突然、夜が昼に変わった。それはものすごく明るかった。そして、寒けが暖かさに変わっていった。火の玉はサイズが大きくなるにつれ、空高く上っていくにつれ、徐々に白から黄に、それから赤へと、変わっていく」(カイ・バード マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー(中)原爆』ハヤカワ・ノンフィクション文庫2024)

 

 火の玉の出現は映像で表現できる。けれど、爆心地から遠く離れた場所でも冷たい空気を温めたほどの原爆の熱を感じてもらうにはどうしたらいいだろう。爆発の瞬間に間近にいたら、とんでもない熱さになるのだ。北山二葉さんは顔を焼かれた。皮膚がズルむげになり、顔はまんまるに膨れ上がり、誰が誰やら親でもわからない姿にされてしまった。それって特殊メイクでつくって映画で見せたら、観客は我が事として泣いてくれるだろうか。

 トリニティ核実験でできたクレーターは砂漠の砂が溶けてできた緑色のガラスに埋もれて、まるで池のように見えたことを、ブログ「人類の自殺 地表爆発」で紹介した。映画で出てくるかなと思って見ていたが、出てこなかったように思う。もっとも、この緑色のガラスに放射能があることを説明するのも手間がかかる。映画『オッペンハイマー』は、光と炎、それに轟音で、原爆のすさまじさを表現しようとした。

 トリニティ核実験の後、オッペンハイマーの脳裏にヒンズー教の聖典『バガヴァド・ギーター』にある「今、われは死となれり。世界の破壊者とはなれり」が浮かんだことはよく知られる。それは彼の苦悩の表現か、逆に使命感の現れかと考えたのだが、オッペンハイマーの評伝を書いた藤永茂さんの解釈は違う。

 

 クリシュナは「人間の目はすべてを見ることはない」と言いながらも、アジュナの前にその姿をあらわす。

「千の太陽の光が、突如、空に輝きのぼるならば、その燦然たる様は神の輝きにもくらべられよう」とアジュナは感得したのだが、目がくらんだ。炎か、太陽か、ああ、目がくらむ。何もわからぬ。

「あなたの巨大な形、天空に達し、色乱れて燃え上り、かっと開かれた大きな口、炎のように燃える目を見て、私の心臓は恐怖におののき、私の力は萎え、心の平和は失われました」。アジュナは救いを求めて叫ぶ。(藤永茂『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』ちくま学芸文庫2021)

 

 その時のオッペンハイマーにとって、『バガヴァド・ギーター』にある「世界の破壊者」とは原爆そのものだったのだ。ヒンズー教の神クリシュナは王子アジュナに言った。「立ち上がって戦え。栄光をかちとれ。お前の敵を征服せよ」と。オッペンハイマーもまた、「世界の破壊者」の言葉に背中を押されたに違いない。