『オッペンハイマー』21 トリニティ12 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 オッペンハイマーが原爆を実戦で使うことに賛成したのは、彼なりに世界の将来を考えてのことだった。しかし、今どうして日本に落とすのかと聞かれれば何も答えられなかっただろう。オッペンハイマーは後年、「われわれは日本における軍事情勢については、これっぽっちも知らなかった」と回想している。(カイ・バード マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー(中)原爆』ハヤカワ・ノンフィクション文庫2024)

 連合国軍が日本本土に侵攻する日を1945年11月1日と決定したのはその年5月25日のこと。実施されたらノルマンディー作戦を超える史上最大の軍事作戦となるはずで、双方の死傷者も想像を絶するものになったに違いない。

 マッカーサーなどは地上作戦を強硬に主張したが、トルーマン大統領などは必ずしも納得していなかったという。これがもし空襲と海上封鎖を徹底する作戦に出れば、日本には飢餓地獄が出現するが、アメリカ軍兵士の損害はかなり少なかっただろう。

 この年6月8日に開かれた天皇臨席の「御前会議」は、「飽ク迄戦争ヲ完遂」するのだと威勢よく徹底抗戦を唱えたが、それを聞いた木戸幸一内大臣はすぐに和平工作を進めるため「時局収拾の対策試案」を起草した。その中で国内情勢について次のように指摘している。どうにもならない状況であることは明らかだった。

 

 …あらゆる面より見て、本年下半期以後に於ては戦争遂行の能力を事実上殆ど喪失するを思はしむ。

 …今日敵の空軍力より見て、全国の都市と云はず村落に至る迄、虱潰しに焼払ふことは些したる難事にあらず……結局貯蔵品の殆ど全部を喪失するを思はしむ

……本年下半期以後の全国に亙る食糧、衣料等の極端なる不足は、容易ならざる人心の不安を惹起すべく事実は真に収拾し能はざることとなるべし。(防衛庁防衛研究所戦史室『戦史叢書 大本営陸軍部(10)』朝雲新聞社1975)

 

 結局日本政府はソ連に和平交渉の仲介を頼んだ。ソ連はすでに日ソ中立条約の破棄を通告していたが、溺れる者は藁をも掴むのだった。

 1945年2月にイギリス、アメリカ、ソ連は「ヤルタ秘密協定」を結び、ドイツ降伏の3か月後にソ連が対日参戦することを確認している。アメリカ軍に加えてソ連が攻めてきたら日本はもう絶体絶命。8月中の日本降伏は確実だったと言えよう。

 しかしドイツ降伏後のヨーロッパでアメリカとソ連の対立が表面化すると、対日参戦によって東アジアにおけるソ連の影響力が増すことをアメリカ政府は懸念した。国務長官ジェームズ・バーンズの言葉が残されている。「ロシアが参戦する前に戦争を終結することが大事であるという気持ちが、常に心の中にあった」(『オッペンハイマー(中)原爆』)

 ソ連が参戦する前に戦争を終わらせたい。そのための切り札が原爆だった。7月17日からベルリン郊外のポツダムで、トルーマンとチャーチル、そしてスターリンが顔を合わせる。それまでに何としても原爆を完成させること。それがグローヴスのオッペンハイマーたちロスアラモスの科学者への厳命だった。世界初の核実験「トリニティ」の予定日は前日の16日。失敗は許されなかった。