『オッペンハイマー』8 ハンフォード3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 自分たちに危害を及ぼしたのはハンフォードの放射性物質だと気づいたのはジューン・ケーシーさんだけではない。ミリー・スミスさんは1947年にハンフォードの「核の城下町」パスコに生まれた。16歳の頃に体の具合が悪くなり甲状腺機能障害との診断が出た。1986年になって新聞でハンフォードの放射性物質放出を知り、ハイスクール時代の同級生に手紙で問い合わせたところ、返事のあった48人中25人に甲状腺の異常があり、9人がすでに白血病やがんで亡くなっていた。中国新聞の取材班が訪れた1989年にはスミスさんの体にもがんが広がっていてもう手遅れだという。スミスさんは嘆く。

 

 「…放射能を浴びたことが、もう少し早く分かっていれば、検査も受け、病気の発見も早く、十分な治療も受けられたはずよ。政府の秘密主義が、私の命を奪い取ろうとしているんだわ」(中国新聞「ヒバクシャ」取材班『世界のヒバクシャ』講談社1991)

 

 ワシントン州政府で放射線防御を担当するアレン・コンクリンさんはこう指摘する。

 

 「グリーン・ラン」で放出された放射能の量はたいしたことはないという人もいますが、量が問題なのではありません。国家防衛のためなら、秘密主義も許される、国民の犠牲も厭わないという「核のカルチャー(文化)」が問題なのです。(NHK「原爆」プロジェクト『NHKスペシャル 地球核汚染〜ヒロシマからの警告』日本放送出版協会1996)

 

 周辺住民が被曝することは明らかなのに、なぜ警告さえすることもなく「グリーン・ラン」実験を実施したのか、その目的は今も秘密のままだ。ソ連の核開発の情報収集のためとか、アメリカの新たな核兵器開発のためだとか、いろいろと推測されているようだが、結果としては放射性物質による人体実験以外の何ものでもない。

 「グリーン・ラン」実験の後も、米ソ冷戦下における核開発競争の中、放射性物質は放出されつづけた。

 コロンビア川を挟んでハンフォードの核工場の反対側は広大な農業地帯だ。ロバート・パークスさん夫妻が結婚してここで農業を始めたのは1953年。やがて6人の子どもが生まれたが、二男は肺の発育不全で誕生して二日後に亡くなった。3人の娘は甲状腺に障害があり、妻のベティーさんは胸に腫瘍ができた。ロバートさんも甲状腺の薬を飲みつづけている。

 1986年にハンフォードからの放射性物質放出を知ったパークスさん夫妻は、家族を襲った不幸の原因はこれしかないと考え、自宅周辺1マイル(1.6km)四方の28家族の健康状態を聞いてまわった。すると健康に問題がなかった家は当時1軒だけ。どの家にもがん患者がいるか、障害のある赤ちゃんが生まれていた。ハンフォードの風下にあたるこの地域は「死の1マイル」と呼ばれるようになる。そして汚染は今も続いている。

 パークスさん夫妻は中国新聞の取材班に語った。「世界中に伝えて下さい。アメリカは核兵器を造った。その裏で、何万人ものヒバクシャを同時につくった、とね」

 アメリカは密かに原爆をつくると同時にまたヒバクシャも密かに生み出した。オッペンハイマーは原爆を生み出しただけでなく、そうしたアメリカの「核のカルチャー」の生みの親でもあったのだ。