『オッペンハイマー』7 ハンフォード2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 新聞記者のカレン・スチールさんが悪い噂を耳にしたのは1984年のことだった。ハンフォードのプルトニウム生産工場周辺では甲状腺障害やがんに苦しむ人が多いとか、目のない子牛や足が不自由なヤギが生まれるのは珍しいことではないというものだ。工場から何か有害な物質が漏れ出たのではないかと疑ったカレンさんは、地元の環境保護団体と一緒にアメリカエネルギー省に資料の公開を求めた。

 エネルギー省が資料の機密解除を決定したのは1986年2月。19,000ページにも及ぶ文書には驚くべきことが記されていた。ハンフォードで軍事用プルトニウムの生産が始まった1944年から長年にわたって膨大な量のヨウ素131やセリウム144、ルテニウム103、ストロンチウム90などの放射性物質が環境に垂れ流しにされていたのだ。ワシントン州政府で放射線防御を担当するアレン・コンクリンさんは資料を見て驚いた一人だ。

 

 「長年働いてきた私は、ハンフォードのことはたいていわかっているつもりでした。しかし、放出された放射能の量には肝がつぶれました。文書からはエネルギー省側の苦慮も読み取れます。もし、本当のことを知らせれば、労働者は逃げ出し、人々はパニックを起こしていたでしょう。混乱を防ぐために、彼らは徹底して事実を隠しつづけてきたのでした。しかしこの秘密主義が、環境を汚染し、人々を傷つけ、また、人々がハンフォードに不信を抱くという、取り返しのつかない負の遺産を生んでしまったのです」(NHK「原爆」プロジェクト『NHKスペシャル 地球核汚染〜ヒロシマからの警告』日本放送出版協会1996)

 

 垂れ流しにされた放射性物質の中でも飛び抜けて量が多かったのがヨウ素131だ。原子力発電をすると大量に発生するガス状の放射性物質で、甲状腺に蓄積されやすく、がんの危険性がある。汚染された牧草→乳牛→ミルク→人間といった食物連鎖でも吸収されるので、1957年イギリスのウインズケール(現 セラフィールド)軍事用原子炉の火災事故では1か月以上にわたって周辺で生産される牛乳が廃棄された。

 ハンフォードでプルトニウム生産を始めた当初、放射性物質の除去に用いられたのは何と砂のフィルター。まさに気休めとしか言いようのない「フイルター」を通して放出されたヨウ素131の量はチェルノブイリ原発事故のそれに匹敵するという。驚くのはそれだけではない。中には意図的に放出されたこともあったのだ。「グリーン・ラン」と呼ばれる秘密の実験だった。

 1949年12月2日深夜、周辺住民に何の警告もなく放出された大量のヨウ素131は、南北1920km、幅640kmの範囲に拡散した。1989年に下院の放射能汚染に関する公聴会で証言したジューン・ケーシーさんはこの年にハンフォードから南東に80kmほど離れたワーラワーラのカレッジに入学している。ケーシーさんの髪の毛が抜け始めたのは、その年のクリスマスの頃。やがて髪の毛はほとんど抜け落ちてしまった。でも、どうしてこんなことになったのかがさっぱりわからない。医者は、勉強のしすぎだと笑った。

 しかしその後も異常は続く。ジューン・ケーシーさんは2度の流産を経験した。寄宿舎で一緒だった先輩が片腕のない子どもを出産したという話も耳にした。