『オッペンハイマー』6 ハンフォード1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 天然ウランから高濃縮ウランをつくるのはとても困難な作業だ。より効率的な濃縮方法を見つけようとオッペンハイマーたちも頭を悩ませている。それに対して、これも原爆の原料となるプルトニウム239を生成するのは比較的容易だという。黒鉛炉という種類の原子炉なら天然ウランを核分裂させてエネルギーを取り出すことができるが、この時ウラン238が中性子を吸収し、プルトニウム239が生成されていく。

 このプルトニウム239を爆発させる仕組みがロスアラモスで開発され、1945年7月のトリニティ核実験で爆発実験が成功、そして長崎で実際に使用された。それからはプルトニウム239が核兵器の主原料となる。

 核兵器用のプルトニウム生産工場がつくられたのはアメリカ太平洋岸のワシントン州にあるハンフォードだ。四方を険しい山に囲まれた広大な乾燥地帯にあり、太平洋に注ぐ大河コロンビア川がそばを流れる。コロンビア川流域は古来よりアメリカ先住民の大地であったことも知られている。

 1943年2月にアメリカ政府がハンフォードの土地を強制収容すると、1年半後には3基の原子炉が完成し、このうち「B原子炉」で生成されたプルトニウムが原爆に詰められて長崎に投下された。ハンフォードの近くにはリッチランド、パスコ、ケネウィックという三つの町があり、まとめてトライ(「三つ子」)シティと呼ばれる。この町には「アトミック・フーズ」や「アトミック・ランドリー」といった店の名前が目立ち、リッチランド・ハイスクールの校章に「キノコ雲」が使われたことは日本でも報道された。まさに「核の城下町」。ここに住む人たちにとって原爆は自分たちの誇りなのだ。

 しかしハンフォードの名が知られるようになったのは原爆だけではない。実は原爆に使うプルトニウムをせっせとつくっている時から環境を放射性物質で汚染し、そして今も世界最悪の放射能汚染地帯の一つとなっているのだ。1995年、アメリカ政府の放射性廃棄物処理担当者がNHKの取材班にこう語っている。

 

 「核兵器を開発したのはとても頭の切れる天才たちでした。しかし、なぜ彼らは廃棄物処理について関心を払わなかったのか。なぜ、こんなことに気づかなかったのかと責めたくなることがあります。われわれはマンハッタン計画や冷戦期の科学者たちより頑張らなくては、問題を解決することはできません」(NHK「原爆」プロジェクト『NHKスペシャル 地球核汚染〜ヒロシマからの警告』日本放送出版協会1996)

 

 住民の被害は深刻だった。でも、住民自身が、誰からこのような目に遭わされたのかわかったのは1980年代半ばになってのことだった。

 

 八九年二月下旬、首都ワシントンで、下院エネルギー通商委員会の「放射能汚染に関する公聴会」が開かれ、一人の主婦が証言台に立った。カリフォルニア州オークランドからやって来たジューン・ケーシーさん(58歳)である。

 「私の体は、ハンフォード核工場が排出した放射能に侵され続けて来ました。でも、この事実を知ったのはつい三年前のことです。信じていた政府にだまされ続けた憤りを禁じ得ません」

 物静かな感じの中流婦人の口をついて出る厳しい言葉に、会場は静まり返った。(中国新聞「ヒバクシャ」取材班『世界のヒバクシャ』講談社1991)