落下傘の謎16 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 落下傘についていたのは測定装置であり爆弾ではなかったことは、8月10日に広島市内で開かれた陸海軍合同の研究会で確認された。しかし国民に知らされたのは、「原子爆弾」という言葉とともに、「終戦」の8月15日だった。15日付の読売新聞に物理学者の浅田常三郎さんが広島の原子爆弾について報告する中、「この落下傘づきの物体が特殊爆弾といふ意見はその後の調査により訂正された」としている。(『広島県史 原爆資料編』)

 しかし、真っ白な落下傘が突然光ったという「事実」を、新聞のわずかな説明で誰もがすぐに訂正できたわけではなかった。たとえば、当時の材木町、今は平和記念資料館のすぐ南側で建物疎開作業中の1、2年生が全滅した市立第一高等女学校の「罹災関係経過日誌」。

 

 八月六日午前八時過敵大型機三機ト思ハルヽモノ広島市上空ニ飛来、新型爆弾落下傘付ノモノ投下 着地前空中ニテ炸裂ス、(中略)強烈ナル光線ニテ露出皮膚ハ総ベテ大火傷、着衣モ又焼ケボロボロトナル、次ノ瞬間ノ爆風ニヨリ衣類総ベテ吹飛ビ丸裸トナル(中略)学徒ノ多クハ紋平ヲ止メ居ルヒモ乃至皮帯ノミアレドモズロースサヱナク一糸マトハザル者殆ンドノ如シ(「広島市立高等女学校経過日誌」『広島県史 原爆資料編』広島県1972)

 

 こうして「新型爆弾落下傘付」は、原爆による惨たらしい光景とともに広島の記憶そして記録として残された。(全てではない。原民喜や峠三吉、小倉豊文は原爆と落下傘を別物としている)

 たとえば1958年2月出版の『新修広島市史 第2巻 政治史編』に「投下された原子爆弾には落下傘による懸垂装置があり」とある。

 しかし、その3年後に出版された『新修広島市史 第1巻 総説編』になるともう落下傘付とは書かれてはいない。1971年の『広島原爆戦災誌』や1972年の『広島県史 原爆資料編』には、落下傘に吊り下げられた測定装置についての記述が出てくる。

 事実としては、原爆は落下傘にぶら下げてユラユラ落としたのではなく、あらかじめ定められた照準点に向けてできる限り正確に落下させたのだ。

 それでも、「落下傘にぶら下がった原子爆弾」が今も息づいているのはどうしてだろうか。

 それは、被爆した人やその家族の体験があまりにも重たくて、その体験を聞く側も、思いをそのまま受けとめるしかないからだと思う。

 関千枝子さんは、亀沢深雪さんから妹の恵尼さんが残した言葉を聞いた。「誰かが、あ、落下傘といった。見上げると落下傘が三つ、ふわふわと落ちてくるところだった。生徒たちはそれを見上げて、なんだろうとはしゃぎ笑った」と。その直後に原爆の閃光が恵尼さんの目を貫いた。関さんは深雪さんの繰り言にじっと耳を傾け、心に刻んだ。

 

 「バカな話と思うでしょうが……。パラシュートを見たとき、全速力で南へ逃げて、バッと物かげに入ったら……。百メートルやそこら走れるでしょう。あの時の原爆だったら、何人か助かった人がいたかもしれない……」

 私もそう思う。 (関千枝子『広島第二県女二年西組』ちくま文庫1988)

 

 亀沢恵尼さんや深雪さんたちの無念をヒロシマが忘れていいわけがない。忘れないためには、あの落下傘を爆弾と見間違えたこともまた、ヒロシマの大切な記録として残すべきではないだろうか。