落下傘の謎15 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 8月7日午後3時30分、大本営はようやく次のように発表した。

 

 六日午前八時過ぎ敵B29少数機が広島市に侵入、少数の爆弾を投下した、これにより市内には相当数の家屋の倒壊と共に各所に火災が発生した、敵はこの攻撃に新型爆弾を使用したものヽごとく、この爆弾は落下傘によつて降下せられ空中において破裂したものヽごとく、その威力に関しては目下調査中であるが、軽視を許されぬものがある(以下略)(「朝日新聞」1945.8.8)

 

 アメリカが爆弾は一発だと言っているのに、「少数の爆弾」にこだわるのはどうしてだろう。同盟通信の中村敏さんも「一発ないし二発の特殊爆弾」と発信しているが、これは大本営からすれば参考程度の情報で、正式な報告とされるのは広島にある軍司令部の司令官、参謀などからの報告だ。

 ただ中国軍管区司令部は、一人生き残った参謀が報告できたかどうか不明。

 第二総軍司令部からは報告があったが具体的な文言はわからない。ただ落下傘は、誰か屋外にいたら見えただろう。その日の朝、第二総軍司令部から2kmほど東の山道を陸軍船舶練習部第十教育隊の斉藤義雄隊長が広島駅に向かって歩いていた。

 

 ふと府中方向の東の空に小さな落下傘が二箇相前後して、フワフワと静かに落ちて来るのを認めた。(中略)「はて何だろう?」と思いながらも、B29の唸り声は、引続き何処からともなく聞こえてくるし、妙な落下傘は落ちてくるし、何か不安な胸さわぎを感じながら、眼を東から南、西の方向に移しつつ更に機影を求め続けた。視線を真西に向けた頃、相当上空に、B29 の一機が右旋回する姿が、キラッと銀色に光った。万年筆位の大きさに見えた。その附近の空を、機影を求めて凝視していると、その下の方で、今迄に見たこともない強烈な閃光が目に入った。これが史上かつて無い大惨劇を、広島市民にもたらしたいわゆるピカであった。(「被爆者救護活動の手記集(暁部隊)」『広島原爆戦災誌 第5巻』)

 

 斉藤さんがいた場所からは、落下傘が見えたのが東の方角で、閃光が走ったのは西の方角になる広島市中心部の上空だ。当然、斉藤さんは落下傘が爆発したと思うはずはないが、二葉の里にいた人間なら落下傘が爆発したように見えたかもしれない。しかし確かめようがない。

 それに対して宇品の暁部隊には確かな落下傘の目撃証言がある。当時、暁部隊の陸軍船舶練習部が入っていた大和紡績広島工場(今はマツダの工場の一部)の近くで被爆した広瀬自助陸軍少尉だ。

 

 被爆場所は出勤途上のときで、同工場の門前百米の地点の所でした。丁度、頭上八千米の高度にB29三機が飛来し、落下傘を三個投下するのを目撃しました。異様な感に打たれ、何故の落下傘(中略)であろうか、昼間に照明弾を投下する筈もないがと不審に思ううちに、視界が真白になり閃光というより、あたかもマグネシュウムを何トンも焚いたという感じでありました。その瞬間頭脳をかすめたのは、これは何か新兵器に違いないということでした。(「被爆者救護活動の手記集(暁部隊)」)

 

 船舶練習部は8月8日付の報告書にこう記している。

 

 投下物 1 白色落下傘ヲ付セル大型爆弾三個(中略)ト推定セラル(『広島県史 原爆資料編』)

 

 この内容で船舶司令部が6日に大本営に打電しても何らおかしくはないだろう。