落下傘の謎14 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 第二総軍司令部が宇品船舶司令部の無線機で大本営に状況を報告したことについて、1946年10月編纂の『本土作戦記録・第二総軍』(防衛研究所蔵)にはこう記されている。

 

 8月6日午前8時10分頃真に突如原子爆弾の攻撃を受けたり。被弾直後の印象は高々度より司令部に対し爆弾及焼夷弾の集中爆撃を受けたりと思考せるも、時間の経過と共に被害逐次判明、午前10時頃予て準備中の戦闘指揮所に移転するに及び炎々たる猛火に包もれたる全市街の被爆の様相を望見し、茲に特殊爆弾に非ずやとの疑問を懐き直ちに大本営に対し右所見を付して状況を報告せり。(原爆手記総目録編纂委員会「紙碑」 ウェブサイト「ヒロシマ通信」掲載)

 

 広島空襲の最初の報道は6日午後6時のラジオニュースだと言われる(広島県『原爆三十年』1976)。「八月六日午前八時二十分、B29数機が広島に来襲、焼夷弾を投下した後逃走せり。被害状況は目下調査中」というものだ。第二総軍の報告と空襲の時刻が違うが、「焼夷弾を投下」という報道は、第二総軍司令部の「爆弾及び焼夷弾の集中爆撃」という報告と類似する。

 広島市に少数のB-29爆撃機が焼夷弾攻撃を行ったという発表は、大本営による広島の壊滅的被害の隠蔽とも受け取れる。しかしもしかすると、大本営も広島が壊滅的な状況にあることをすぐには理解できなかったかもしれない。第二総軍司令部は「特殊爆弾に非ずや」という所見をつけたにしても、とても「広島壊滅」とは報告できなかっただろうから。

 そしてたとえ広島の壊滅的な被害を伝えたとしても、中国軍管区司令部にいた斎藤美知子さんの報告を中部軍管区司令部が信じなかったように、大本営も、「全市全壊、そんな馬鹿なことがあるか」という思いだったのではあるまいか。

 しかし8月7日午前1時過ぎ、同盟通信社はトルーマン大統領の声明が放送されるのをキャッチした。

 

 十六時間前、アメリカ空軍機が、日本陸軍の重要基地である広島に一発の爆弾を投下しました。その爆弾は、TNT火薬で二万トン以上の破壊力を持ちます。これまでの戦争で使われた最強の爆弾は、イギリスの「グランド・スラム」ですが、今回の爆弾はその二〇〇〇倍以上の爆発力を持っています。(中略)これは原子爆弾です。(「トルーマン大統領声明」(部分) 井上泰浩『アメリカの原爆神話と情報操作』朝日新聞出版2018)

 

  広島が大変なことになっているという情報は他にも6日のうちから入っていた。天皇側近の尾形健一侍従官の6日の日記には「午後七時過海軍省ヨリ呉鎮情報トシテ電話通報アリ。本朝八時頃広島市ニB29二、三機来襲特殊弾攻撃ヲ受ケ市街大半倒壊、軍関係者死傷壊滅少カラズ」とある。(御田重宝『もう一つのヒロシマ』中国新聞社1985)。

 呉の海軍鎮守府からも広島の被害について報告があったとなれば、大本営も事実として受け入れざるをえなくなってくる。が、それでも大本営が本格的に動き出したのは7日朝になってからだった。大本営の参謀次長、河辺虎四郎中将の日記にこうある。

 

 出勤早々昨六日朝ニオケル広島ニオケル新爆弾ニヨル空襲ノ諸情報ヲ見、深刻ナル刺激ヲ受ケタリ…ネバラン哉、頑張ラン哉。(『もう一つのヒロシマ』)