同盟通信本社が「広島市は全焼し、死者およそ十七万」という中村敏さんの記事を持っていったら「大本営に叱られた」という(小河原正己『ヒロシマはどう記録されたか 上』朝日文庫2014)。広島市の人口の半分が死んだという国民が戦意喪失をしかねない記事を大本営が公表するはずはなかった。とすれば、原爆が落下傘にぶら下がっていたという情報に限っては同盟通信の記事を採用したとも考えにくい。やはり広島の軍や行政からの報告を受けてからの発表ということになるのではなかろうか。では広島の軍や行政機関は何をどのように伝えようとしただろうか。
まずよく知られているのが、広島城本丸跡にあった中国軍管区司令部からの第一報だ。送ったのは当時司令部に動員されていた比治山高等女学校3年の荒木(旧姓 板村)克子さんと岡(旧姓 大倉)ヨシエさん。爆心地から750m、司令部庁舎そばの半地下壕の中で被爆した。
半地下壕の中は端から情報室、通信室、指揮連絡室とあり、その奥に中国軍管区司令部の参謀たちが詰める防空作戦室があった。荒木さんと岡さんが勤務していたのは指揮連絡室。小窓が開いたままだったのでそこから入った爆風に吹き飛ばされ、気がつくと他のみんなは我先にと外に飛び出していた。
板村さんより一歩おくれて外に出た私は一瞬呆然となった。今迄あった司令部も、あっちこっちの建物も、ないではないか。ただの木屑と壁土が山になっているだけ。私は思わず濠の土手の上にかけ上った。広島の街は…。その目に映ったのはあまりにも残酷な瓦礫の町と化した広島であった。赤茶けた想像することも出来ないむごい光景を目にやきつけながら私はその時始めて、「大変だ。」と血のさがる思いをしたのである。下の方で兵隊さんが「新型爆弾にやられたぞう。」とどなっているのが聞こえる。私は元の部屋にかけ込んだ。(岡ヨシエ「交換台と共に」旧比治山高女第5期生の会『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』1969)
ひと月前、私も濠の土手の上に(こけないように用心しながら)上がってみた。目の前には高いビルが立ち塞がり、岡さんの目に飛び込んだ宇品の海も似島も今は見えない。一面瓦礫の原となった広島を想像するのは難しい。
荒木さんは火の手が上がるのが見えたのでバケツを取りに半地下壕に戻ったと手記に書かれている。するとそのとき、香川県の善通寺町(現 善通寺市)に置かれていた四国軍管区司令部からの電話が鳴った。ただ、どんな会話が交わされたのか荒木さんの手記からはわからない。
荒木さんが電話をしているのを見た岡さんは、まだ他にも通じる電話があるだろうと、部屋に転がっていた他の電話の受話器を手に取った。
九州と連絡がとれた。そして福山の司令部へ、受話機に兵隊さんの声が聞こえるのももどかしく
「もしもし大変です。広島が新型爆弾にやられました。」
「なに新型爆弾! 師団の中だけですか。」
「いいえ、広島が全滅に近い状態です。」
「それはほんとうか。」大きくわれる様にひびく声。その内に火の手があがったのであろうか。壕の上の草がパチパチ燃える音が耳に入った。(「交換台と共に」)