落下傘の謎7 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 同盟通信の中村敏さんが原放送所に着いてすぐだった。放送所は岡山放送局と電話が通じた。中村さんはその電話を借りて午前11時20分、「一生に一度の大ニュース」を送る。それは中村さんの手記によれば次のようなものだった。

 

 「六日午前八時十六分ごろ敵の大型機一機ないし二機、広島市上空に飛来し、一発ないし二発の特殊爆弾(原子爆弾やもしれず)を投下した。これがため広島市は全焼し、死者およそ十七万の損害を受けた」(中村敏「ヒロシマ、その日」『日本の原爆文学14 手記/記録』ほるぷ出版1983) 

 

 この記事は同盟通信岡山支社を経由して東京の本社に送られた。

 中村さんは続けて第二報、第三報と送った。しかしそれにはまだ落下傘の話は出てこない。原放送所には、中村さんと前後して生き残った同盟通信の記者が数名たどり着いたが、最後に来た片島薫さんが落下傘を見ていた。

 

 片島くんは広島市の北方六キロの地点で、大型機が一万メートルの高度で、広島市の上空に侵入するのを知った。一機の場合は、これまで爆弾を落としたことがないので、きょうも偵察だなと思って自転車のペダルを踏んでいたら、この大型機からぱっと落下傘が落とされた。変だと思った瞬間、四千五百メートルの広島市上空で、パッと強い閃光を発して入道雲がむくむくとできた。それから何十秒かたって、至近弾が爆発したような大音響をきいた。

 気がついたときには、自転車もろとも稲田の中に放り出されていた。(「ヒロシマ、その日」)

 

 中村さんは片山さんたちの話をもとに第四報を書いた。その具体的な内容は不明だが、落下傘が爆発したと書いてあっても不思議ではない。

 しかし中村さんの記事もまた表に出ることはなかった。まず同盟通信の本社が疑ってかかった。「冗談じゃないヨ、一機や二機の敵機から、たかが一発や二発の爆弾を投下したからといって、広島市が無くなって、十七万人の人々が爆死したなんて、どうしても信じられない…」というのだった。(小河原正己『ヒロシマはどう記録されたか 上』朝日文庫2014)

 そして同盟通信本社から届けられた記事を見た大本営参謀部は、次の指令があるまでしばらく待てと言って記事を握りつぶした。その日の夕方6時のラジオはこう知らせている。「今朝八時二〇分、B29数機が広島市を爆撃、焼夷弾と爆弾を投下した後、退去した。被害はもっか調査中である」と(白井久夫『幻の声 NHK広島8月6日』岩波新書1992)。翌7日付の朝日新聞東京版も同様の記事だった。

 しかしこんな記事でも、大本営が広島への爆撃に危機感を持ったと気づく人間もいた。8日遅く、神戸から来た学生の持っていた新聞で大本営発表を知った小倉豊文さんだ。

 

 「相当の被害」とか「詳細目下調査中」などという言葉は、もうなれっこになった軍部のおきまり文句で、三日間の見聞に照らしあわせると、苦笑させられるばかりだったが、これを「大本営発表」としたところに、軍部の狼狽が目に見えるような気がした。一地方都市の戦災が「大本営発表」になったことがこれまでにあったであろうか。恐らくなかったんじゃあるまいか。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫1982)

 

 「戦争もいよいよ幕切れか」と、小倉さんは改めて思うのだった。