落下傘の謎6 | ヒロシマときどき放送部

ヒロシマときどき放送部

2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 当時、朝日新聞広島支局は市内中心部の下中町(現 中区中町)にあったから、木造の建物はあっという間に圧し潰されて炎に包まれたことだろう。たまたま市外に出ていて助かった記者がいたが、7日に岩国まで行ってようやく小倉の西部本社と連絡が取れた(小河原正己『ヒロシマはどう記録されたか 下』朝日文庫2014)。これではすぐに記事にすることができないから情報は全て大本営発表に頼るしかない。

 他の新聞社も支局はどこも市の中心部にあったので本社に記事を送ることは不可能に近い。それでも毎日新聞記者の重富芳衛さんはなんとか記事を送ろうと努力した。重富さんが被爆したのは爆心地からわずか500mの立町の自宅。助かったのが不思議なくらいだ。そこから重富さんは火の海を越えて広島市の北の可部町まで逃れ、警察署に警察電話での原稿送信を依頼した。敵一機が強力な爆弾一個を投下し全市全滅したというものだった。ところが、可部にも負傷者が殺到して大混乱の最中。毎日新聞には原稿が大阪本社に届いた記録はないという。途中で消えてしまって新聞には載らなかったのだ。

 同盟通信(戦後に時事と共同に分割)広島支社の記者中村敏さんは、8月5日夜は中島本町の下宿に戻らず、広島市の西、五日市町の同僚の家で一杯やり、そのまま泊まったので命拾いをした。朝飯まで食べさせてもらっていた時だった。爆心地からは10kmも離れているのに強烈な閃光。そして爆風に窓ガラスは粉々になった。

 中村さんはすぐに自転車で広島に向かうが、遠くに見えるのは火の海。同盟通信支社は、今は三越となっている上流川町(現 胡町)の中国新聞ビルに入っていたが、そこにはとてもたどり着けそうになかった。そこで以前から緊急の避難所と決めていた広島中央放送局の原放送所に向かった。(『ヒロシマはどう記録されたか 上』)

 そこは爆心地から北に4.5kmのところにあり、高さ137mの電波塔が立っていて、今もNHK広島AMラジオの電波が送り出されている。

 8月6日の朝、原放送所では、上流川町(現 幟町)にあった広島中央放送局から警報を出す合図が来た途端にピカッときた。放送局からの連絡は途絶え、原放送所の職員はラジオ放送を使って岡山や大阪の放送局と連絡を取ろうとした(白井久夫『幻の声 NHK広島8月6日』岩波新書1992)。

 その声をラジオで聞いた人が何人かいたようだ。当時、広島高等師範学校附属中学の1年生だった新井俊一郎さんは、山陽本線の八本松駅で列車に乗ろうとした時、空全体がギラーッと光ったのを見た。乗った列車は次の瀬野駅で停まってしまい、そこで降ろされた。

 

 5人がホームから降り道路に出て、広島に向かって歩こうとしました。駅前には民家があり、商店が並んでいる。どこか家の中から、大声が聞こえて来た。8月で暑いから何処もみなドアを開け放していて、そこから男の人の声がした。

 「こちら広島、こちら広島」と怒鳴っている。「こちら広島、広島全滅」とハッキリ聞こえた。(新井俊一郎「ヒロシマで被爆全滅を免れた中学校1年生だった私は当日入市被爆者です」広島大学文書館75年史編纂室2021)

 

 8月6日朝10時過ぎ、広島の電波が届く範囲なら、ラジオはいち早く「広島全滅」を報じたことになる。