落下傘の謎3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 8月6日の朝、落下傘を見たとたんにパッと光った。だから落下傘が爆発したと思ってなんの不思議もない。けれど中には落下傘と爆弾は別物だと気づいた人もいた。原民喜は、あの日落下傘が三つ落ちてきたと言う話を耳にし、1945年のうちに執筆して1947年に発表した小説「夏の花」の中にこう記している。

 

 Nは疎開工場の方へはじめて汽車で出掛けて行く途中、恰度汽車がトンネルに入つた時、あの衝撃を受けた。トンネルを出て、広島の方を見ると、落下傘が三つ、ゆるく流れてゆくのであつた。それから次の駅に汽車が着くと、駅のガラス窓がひどく壊れてゐるのに驚いた。(原民喜『夏の花』晶文社1970)

 

 当時広島文理科大学の助教授だった小倉豊文さんも落下傘に関心を持った。小倉さんは爆心地から東に4km、新大州橋のたもとで原爆の閃光を感じた。つづいてドーンという轟音が響き、猛烈な爆風に襲われた。少ししてから近くにいた人が二人、「やっぱり爆弾でガンヒョウカ」と聞いてきた。飛行機に気づかなかった小倉さんが爆撃ではなかろうと言うと、二人は飛行機は来たという。

 

「いつ?」

「ホンさっき——B29でガンス」

 二人はまた口をそろえていった。そして俺が何もいわぬうちに、西空を指しながら、

「あれッ、ありゃ落下傘ちゅうもんでガンスカ」ときた。(中略)

 するとどうだ。たしかに落下傘だ。しかも三つ。松茸のおばけの雲塊の肩を右手に少しはずれた青空に、やや斜めに、くっきり白く三つ並んで、フワリと浮いているじゃないか。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫1982 単行本は中央社から1948年に出版)

 

 1960年に出版された『もはや高地なし ヒロシマ原爆投下の秘密』には、アメリカ側から見た原爆投下の様子がドラマチックに描写されている。

 

 八時十五分十七秒、「エノラ・ゲイ」の爆弾投下室のドアが電子盤にあらかじめ仕掛けていた信号によって自動的にパッと開いた。(中略)リトル・ボーイは横になってとび出したが、すぐ真直ぐになり、弾頭を地に向けた。(中略)同じ瞬間「グレート・アーチスト」の爆撃士ビーハンがボタンを押して同機の爆弾投下室のドアを開いた。三つの物体がとび出し、数秒後にはパラシュートが開いた。 (F・ニーベル、C・ベイリー『もはや高地なし ヒロシマ原爆投下の秘密』カッパブックス1960)

 

 原子爆弾「リトル・ボーイ」は投下から43秒後にさく裂し、一方、3個の落下傘はその後もゆっくり北の空へと流れていった。

 落下傘が着地したのは広島市から北に直線距離で15kmの亀山村だ。現在の広島市安佐北区可部の亀山地区。大変な騒ぎになった。1949年に出版された原爆体験記集『天よりの大いなる声』(後に『天よりの声』と改題)に可部高等女学校校長だった井口鉄雄さんの手記がある。

 強烈な閃光と異様な轟音を感じた後のことだった。窓の向こうに見える広島の上空には大きな雲の柱がそびえ立っていた。

 

 …生徒の一人が「落下傘だ」と叫んだ。見ると広島上空の雲柱のかなたに、小さい円い玉が二つ、浮遊しつつ北進し、だんだん大きくなって近づいてくるようだ。警察電話で「時限爆弾かもしれぬから注意せよ」との通報、すぐ授業をやめて生徒を帰宅させた。(井口鉄雄「心の焦土から」末包敏夫編『天よりの声』YMCA出版1983)