落下傘の謎2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 亀沢恵尼さんの遺した言葉で姉の深雪さんは、そして深雪さんから話しを聞いた関さんも、落下傘には爆弾がついていて、それが破裂したと確信しただろう。恵尼さんの目に焼きついた光景を深雪さんも関さんも、自分の心に刻んで忘れることはなかった。

 原爆の閃光が走る直前、青い空に真っ白な落下傘を見たと語った人、書き残した人は他にもいる。北山二葉さんは建物疎開作業に行く途中、爆心地から1.6km離れた鶴見橋の近くで上空を飛ぶ飛行機に気がついた。

 

 雲一つないまっ青な空に、銀色の宝物のように美しい飛行機はかすかな爆音を響かせて、ゆっくり東から西へ飛んで行く。私はしばらくの間顔に手をかざして見とれていた。

 どこかで「あッ、落下傘だよ。落下傘が落ちて来る」という声がした。私は思わずその人の指さす方を向いた。ちょうどその途端である。自分の向いていた方の空が、パアッと光った。(北山二葉「あッ、落下傘だ」広島市原爆体験記刊行会『原爆体験記』朝日選書1975)

 

 北山さんはなんとか一命をとりとめたが、今は平和記念資料館があるあたりで被爆した広島市立第一高等女学校1年生の森本幸恵さんは8月13日に息を引き取った。9日から看病を続けた母親に幸恵さんが残した言葉がある。

 

 …以下は幸恵の言葉のままです。 

 一時間作業し、八時休憩になり、誓願寺の大手の側で腰をかけ、友だち三人で休んでいると、ああ落下傘が三つ、きれいきれいと皆騒がれるので、自分も見ようと思い、一歩前に出て上を向くと同時に、ぴかりと光ったので、目をおさえ耳に親指を入れて伏せたら、その上に一尺はばもある大手が倒れ、腰から下が下敷きになり、頭の麦わら帽子は火がつき焼けていました。

 長いことかかり、大手の下から出ることができ、あたりの友だちを見れば、皆、目の玉が飛び出し、頭の髪や服はぼうっと焼けて、お父ちゃん助けて、お母ちゃん助けて、先生助けてと、口々に叫んでおりました。その時目を抑えた者が三人だけでした。(『広島原爆戦災誌』)

 

 見上げると銀色に輝く飛行機、青空に映える真っ白な落下傘。思わず見とれた途端に強烈な閃光が走った。しばらくして目を開けたら、あたりは地獄のような世界に変わっていた。それを体験した人、その体験を聞いた人にとっては、落下傘が爆弾をぶら下げていたとしか考えられなかったと思う。

 中沢啓治さんの『はだしのゲン』にも落下傘にぶら下がった原爆が描かれている。中沢さんはその時神崎国民学校の1年生で、学校は当時、爆心地から西に約1.2km離れたところにあった。中沢さんは学校の西側の塀を背にして同級生のお母さんと話をしている時、B-29爆撃機の機影に気がつき、それが飛び去ったと思ったら巨大な光が目に飛び込んできた。(中沢啓治『はだしのゲンはピカドンを忘れない』岩波ブックレット1982)

 原爆と、落下傘をつけた3個の測定装置は爆心地の東約3.8kmの矢賀の上空で投下されたと見られている(中国新聞「ひろしま国8.6探検隊(38)原爆はどこで投下された?」)から、落下傘は中沢さんの目には入らなかったと思われる。それでも、中沢さんにとって原爆がついた落下傘を描くのは全く当たり前のことだったのではなかろうか。