落下傘の謎1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 井上ひさしさんの朗読劇を絵本にした『少年口伝隊一九四五』を読みなおした。何度読んでも心に響く。でも一か所、「あれっ」と思った。

 

 ……すると、見よ、あれは落下傘だ。

 B29が落下傘を落として行った。

 

 黒い土管のようなものをぶらさげた

 その落下傘は、四十五秒もかけて

 ゆっくりと降りてくると、

 上空五百八十メートルのところで……(井上ひさし『少年口伝隊一九四五』講談社2013)

 

 原爆が落下傘にぶら下がって落ちてきたことになっている。本当は、そうではないのだが。

 求めに応じてこの朗読劇がつくられたのは2008年のことだった。

 

 このころの井上さんは原爆をテーマに『紙屋町さくらホテル』『父と暮らせば』と、すでに二つの芝居を書き、好評を博していました。それでもまだ書きたいことがある、とその顔は語っているようでした。

 井上さんの資料収集と読み込みが徹底していることはよく知られています。広島の土地柄や歴史はすっかり頭に入っているはずなのに、彼はこの新作のためにまた広島へ行き、平和資料館や新聞社を訪ね、詳細なメモを作り始めました。(吉岡忍「解説『生きる—死者たちの無念の声を聞きながら』」『少年口伝隊一九四五』講談社2013)

 

 井上さんは1934年に山形県で生まれ、広島の原爆に直接の関わりはない。けれど、これでもかと言うくらい一生懸命に広島を学ばれた。それでもなお、原爆に落下傘がくっついているから謎なのだ。

 井上さんだけではない。ヒロシマを学ぶには欠かせない本の一つ、1985年に単行本が出版された関千枝子さんの『広島第二県女二年西組』にもこう書かれている。

 

 「あっBが……」

 波多が空を見た。何人かの生徒も見上げた。パラシュートをはっきり見たものもいた。

 このとき警戒警報が解除になっていたのを、被害をふやしたもと、と非難する人もいる。だが、当時の常識として、一機や二機の飛行機は空襲を意味しなかった。迷い機か偵察機か——。ましてパラシュートに爆弾がついているなど……。落下傘は人がおりてくるものだ。何人かの少女は笑いさざめいて、ゆらゆらと落ちてくる落下傘を指さした。(関千枝子『広島第二県女二年西組』ちくま文庫1988)

 

 あの日、爆心地から1kmちょっとの雑魚場町の建物疎開作業に関さんも一緒に出るはずだった。けれどお腹をこわして欠席し、命拾いをした。作業に出た38人のうち37人がすぐに亡くなり、ただ一人生き残った坂本節子さんも胃がんを患って37歳の若さでこの世を去った。

 関さんが、亡くなった同級生の生きた証、我が子を失った親の悲しみを一冊の本に残そうと思い立ったのは1977年のこと。あの日から32年が過ぎていたが、それでも一人また一人と、関さんは遺族を探しあてた。落下傘の話は亀沢恵尼(えに)さんのお姉さん深雪さんから聞いたものだろう。

 

 恵尼は、たえだえの息の中からもの語った。飛行機の音は聞こえたが、警報は解除されていたから友軍機と思った。誰かが、あ、落下傘といった。見上げると落下傘が三つ、ふわふわと落ちてくるところだった。生徒たちはそれを見上げて、なんだろうとはしゃぎ笑った……。(『広島第二県女二年西組』)

 

 ふわふわと落ちてくる落下傘は、恵尼さんが最後に目に焼き付けた光景だった。原爆の閃光に目はつぶれ、全身を焼かれ、人の姿を奪われて、恵尼さんはその日のうちにこの世を去った。