落下傘の謎4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

平和記念資料館に展示されている測定装置

 落ちてきた落下傘は三つ。見ている者はみな、アメリカ兵がぶら下がっていると思っただろう。当時亀山国民学校の先生だった津恵君江さんの手記によると、亀山村にいた日本軍兵士たちは「殺してやる」と銃を持って身構えたという。けれどすぐに「あっ、人間ではない、爆弾だ」と叫んだ。

 みんな恐れおののき、津恵さんは子どもたちを連れて避難した。やがて落下傘は近くの山や水田に着地したが、しかし落下傘についている爆弾らしき物は爆発しなかった。それでも、もしかしたら時限爆弾かも知れないと、近寄る者は誰もいなかった。(可部町被爆体験継承編集委員会『可部町被爆体験記録集 川のほとりで』広島市亀山公民館・可部公民館1984)

 海軍の調査団が亀山村にやってきたのは8日の午後。近くに住む人たちはそれまで二日二晩、山中に避難していたのだ。

 落下傘についていた正体不明の物体は直径30cm、長さ1mぐらいのアルミニウム製。丸い先端は透明なプラスチックでできていて、中に真空管が並んでいるのが見えた。呉海軍工廠で爆弾の研究開発をしていた海軍大尉の西田亀久夫さんが部下の山本技手と一緒に金切り鋸で切ってみることにした。一目見て測定器とは思ったものの、爆薬が仕掛けられている可能性も否定できなかった。

 

 …ゴシゴシ鋸を引き始めると、さすがによい気持ちはせず、全身汗ビッショリになりました。初めは、われわれを取り巻いていた呉鎮の上司や艦政本部のお歴々も、「ちょっと村の様子を見てくる……」、「トイレに用足しに……」などと、一人去り二人去って、とうとう最後には山本君と私だけになってしまいました……(小河原正己『ヒロシマはどう記録されたか 下』朝日文庫2014)

 

 結局爆発しなかった「正体不明の物体」は、呉海軍工廠に持って帰って調べた結果、原爆が爆発した際の風圧を測定して送信する装置だということが判明した。直径が11mもあった落下傘の布は地元の人で分けて、それで子どものワンピースを作った人もいた。

 8月10日、広島市霞町の広島陸軍兵器補給廠で陸海軍合同の研究会が開かれ、それまでの調査結果が報告された。原爆が投下された時の様子は、宇品の高射砲観測所と中野(現 広島市安芸区)の砲台警備隊監視哨の観測をもとに次のように報告されている。

 

 (B-29爆撃機のうち)北ニ向ヒシ一機ハ旋回後暫時ノ後三個ノ爆弾型ノ物体ヲ投下ハ直チニ落下傘開傘セリ

 原子爆弾ヲ投下セルハ南進セル一機ニシテ旋回前ニ既ニ投下セルモノニシテ本弾ニハ落下傘付シアラザリシモノノ如ク…(「陸軍航空本部技術部広島爆撃調査報告」1945.8.10 『広島県史 原爆資料編』広島県1972)

 

 しかし、この研究会で示された、広島でさく裂したのは原子爆弾だという「判決」は、国民には8月15日まで秘密にされた。落下傘にぶら下がっていたのは測定装置だったという情報なども、政府の中でさえ伝わっていなかった可能性がある。

 小倉豊文さんはこう書いている。

 

 落下傘についての「妄想」は少なくとも一週間から十日ぐらいは正真正銘のものとして日本中に流布した。いや、全世界に流布されたといった方がいいかも知れない。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫1982)