人類の自殺74 救援9 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

  今井病院は診察室と分娩室、それに手術室が3室ある病院だったが、当時、医師は60歳過ぎた院長の今井一さんひとりだけ。他の医師は軍隊に召集されていたのだ。被爆時の院長と看護婦の奮闘ぶりは、東京から縁故疎開し、そのころ体調を崩して静養中だった堀場清子さんが手記に書き、今に伝えておられる。

 今井病院は爆心地からの距離約9km。爆心地から2km離れた横川駅あたりからなら、トラックで負傷者を運んでくるのにそれほど時間はかからなかっただろう。重傷者はあっという間に今井病院の待合室から廊下、さらには病院の庭にまで横たえられた。

 

 帽子をかぶっていた男たちは、線を引いたように、帽子の下の部分だけ頭髪が残り、下側はずるりと剥けていた。大きく腫れあがった真丸な白い顔に、黒い汚れが下っていると見えて、近づけば黒く縮れたものが皮膚の名残り、白いのは脂肪層とわかるのだった。(堀場清子『原爆 表現と検閲』朝日選書1995)

 

 頭蓋骨に石がめりこんだ人もいた。赤紫の内臓が腹の外に出ていた人も。皮膚のむけてしまった腕に火傷の赤ちゃんを抱いて、「この子を何とかしてください」と絶叫する母親……。院長は昼食も夕食も抜いて、そして徹夜で治療にあたった。

 医薬品はすぐに底をついた。ひどい裂傷でも麻酔なしで縫うしかない。一針ごとに「ギャーッ」と叫んで跳ね上がる娘を押さえつけながら、「お父さんも辛いぞ、お父さんも辛いぞ」と泣かんばかりに繰り返していた父親の姿を堀場さんは忘れられない。

 院長は疲労で動けなくなっても、注射を打ってもらって起き上がり、また手術を続けた。けれど、そこまでしても治療が間に合わず、多くの人が息を引き取った。

 堀場清子さんは病院の玄関先で、負傷者を運んできたトラックの運転手とやり合っている。

 

 「(トラックで爆心地から郊外にけが人を運んで)救出に当たっている人たちは、今井病院まで運べばなんとかこの人たちの命が助かるだろうと思って必死になって運んでくるわけですね。だけど、際限なく受け入れたら、今井病院の死者が増えるだけなんです。いくらおじいちゃん1人のメスが頑張ったって、もうすでに限度を超しているんですね。そのうえに、次から次から来るのを限度なく受け入れたら、ますます死者を増やすことになる。だから(けが人を運ぶトラックの)荷台の上と下で、もう声を限りに怒鳴り合ったんです。上の人は下ろさせろと言う。私たちは先へ行けと言うんですね。何台かはそうやって拒否して行かせたんですね。だから瀕死でもってトラックの荷台に揺すられてきた人たちは、私たちが断ったがために、さらに何十分か息も絶え絶えで揺すられていって。治療を受けて助けられたかもしれないし、結局死者を増やしただけかもしれない。わからないです。」(NHK広島「核・平和特集 知ってるつもり知らないヒロシマ」2020.12.25)

 

 8月8日に緑井村の国民学校が救護所となるまでに今井病院が受け入れた原爆の負傷者は300人と言われるが、治療も十分にできないまま80人の死者が出た(『広島原爆戦災誌』)。どうすることもできなかったのだが、自責の念はずっとついて回った。