広島市の核攻撃被害想定は、市の上空で再び16キロトンの原爆がさく裂したら直後の死者は少なく見積もって66,000人、負傷者は20万人以上になるとみている(広島市国民保護協議会核兵器攻撃被害想定専門部会『核兵器攻撃被害想定専門部会報告書』2007)。この20万人の内どれだけの人が医療機関にたどり着けるかわからないが、かなり厳しいのは間違いなかろう。
市内中心部の病院は核攻撃には無力だ。大きな窓ガラスで明るい病室は核爆発では一瞬にしてガラス片の嵐が吹き荒れる。火災も起きる。医師や看護師の中からかなりの数の死傷者が出る。救急車も動けない。道路は自動車から炎が噴き出て一帯が火の海になるに違いないのだ。
一方、都市近郊の病院は爆風や火災の被害を免れたとしても、助けを求める数千数万もの負傷者に十分な対応ができるだろうか。とてもそんな余裕があるとは思えない。そこで『核兵器攻撃被害想定専門部会報告書』には「トリアージ」という言葉が出てくる。
…限られた医療資源(医療スタッフ、医薬品等)を最も効率的に活用するために、トリアージ(患者選別)がまず必要となる。重症だが助かる見込みの高い患者に重点を置いた治療を行い、助かる見込みの低い患者や、生死に関わるような障害を負っていない患者には応急措置のみを提供する、といった形で患者選別が行われる。(『核兵器攻撃被害想定専門部会報告書』)
しかし、核戦争においてトリアージは自然災害以上に困難なことではなかろうか。1945年の広島では無傷でもコロッと死んでいく人が後を絶たなかったが、現代でも、浴びた放射線量を現場で正確に測定するのは難しいに違いないのだ。
また、負傷者があまりにも多い場合、普段なら助けられる人でも見捨てざるをえなくなる。
緑井村の今井病院に疎開していた堀場清子さんはこんな経験をしている。一人の少女が病院にやってきて窓の鉄格子にしがみつき、治療してもらって家に帰った父親が高熱を出して苦しんでいる、今から往診してもらえないかと言うのだ。
それは夢のような希望だった。まだ最初の治療を受けられない負傷者が、ばたばたと死んでゆくなかで、彼女自身百も承知のその事実を楯に、断るよりなかった。その段階で高熱を発した例は、おおかた希望がもてないのだった。少女は窓の鉄格子にしがみついた。
「では、せめて薬をください。せめて、熱さましでも……」(堀場清子『原爆 表現と検閲』朝日選書1995)
けれど当時14歳の堀場さんに薬局の薬の知識があるわけでなし、手術中の院長に付いて懸命に働く看護婦を無理やり連れてくることもできなかった。
…私は空しく戻り、一縷の希望を断ち切る役を果たすしかなかった。鉄格子を握った指が折れそうにしなり、整った顔がゆがんで、少女は額を格子に押しあてて泣いた。
半世紀たったいまも、あの少女は度々私を訪れてきて、鉄格子を握っては泣き沈む。(『原爆 表現と検閲』)
もしまた核戦争が起きたとしたら、いったいどれだけの人を見殺しにしてしまうのだろう。見捨てられた人たちは何を思って息絶え、見捨てざるをえなかった人はいつまで心の傷に苦しみながら生きていくのだろう。戦争の惨禍はキノコ雲よりもっと広く、そしていつまでも世界を覆う。