人類の自殺73 救援8 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島平和記念資料館には、二人の外国人が負傷者をリヤカーに乗せて救護所に向かう様子を描いた絵が展示してある。祇園町(現 広島市安佐南区)の長束修練院にいたヨハネス・ジーメス神父の手記によれば、この二人は同じ修練院のヨハネス・シュトルテ神父とヘルムート・エルリンハーゲン神父だ。

 

 シュトルテ神父とエルリンハーゲン神父は、山を下って避難民の群れであふれる道におり、道端に倒れている重傷者を村の小学校につくられた臨時救護所まで運ぶ仕事をやり始めた。この救護所では傷にヨードを塗りつけるだけで、負傷箇所を洗ってやることさえしなかった。包帯その他の資材もなかった。そこに運び込まれた人々は地面の上に寝かされたきりで、誰もそれ以上のことをしてやろうとはしなかった。しかし薬も包帯もないとき、それ以上の何ができるだろうか。(ヨハネス・ジーメス「原爆!」カトリック正義と平和広島協議会『破壊の日-外人神父たちの被爆体験』1983)

 

 祇園町のさらに北にある可部町から駆けつけた歯科医の戸田幸一さんが祇園青年学校の臨時救護所で最初に手当てしたのは5歳と3歳くらいの姉妹。二人とも重傷だった。

 

 ガラス片の四散してゐる校舎の入口に、普通ならお菓子でもねだる、五つと三つ位のはだかの姉妹が、小さな方は、顔面、胸部火傷と、ガラス破片創。大きい方も同じ様な負傷ながら、僅に視野があり、盲となった妹の手を握り合って居る二人。誰に連られて避難したのか、手をしっかりと採り合って、横川から一里余りの道を、負傷者の群に押され父母を求めて来たのか知ら。見れば、足も焼たゞれて、よくもまあーと思ふ。(戸田幸一「平和を念じて」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 戸田さんが持っていた配給の医薬品類は、鎮痛剤に消毒液、ガーゼなどが2、3人分しかなかった。包帯もないので火傷に食用油を塗るぐらいのことしかできない。でも、後から後から潮が満ちるように収容される火傷した人、ガラスが体に食い込んだ人、骨折した人、内臓が体から飛び出している人……。もう手に負えなくなった。

 

 「処置なし。」前の広場でひしめく患者。「団長、患者の整理を頼むよ。そして向の神社の境内にござを敷いて処置済患者を収容し、重症は今井病院へ送ろう。それから、可部方面へ逐次護送しませう。」 (「平和を念じて」)

 

 広島平和記念資料館には、松重三男さんが祇園町の北隣の古市町(現 広島市安佐南区)で撮影したトラックの写真も展示してある。

 

 そのうち、奥の可部方面へ被災者を運んでいくトラックが、自宅の前を数十台通りすぎるのを見たが、あまりにも無残な姿であったから、撮影するにしのびなかった。ただ一度だけ、記録にとどめておこうと思ってシャッターを切った。(「被爆広島の写真記録者たち」『広島原爆戦災誌』)

 

 爆心地から北に15km離れた可部町とその周辺の村には1000人を超える重傷者が運ばれた。そして祇園、古市から可部に向かう途中、当時の緑井村(現 広島市安佐南区)にあったのが今井病院だ。産婦人科の看板を掲げていたが外科の手術室もあり、広島市北部では、ここがわずかな頼みの綱だった。