生き残った被爆電車
広島市の『核兵器攻撃被害想定専門部会報告書』はこう指摘している。
…屋外に逃れても、道路は建物や自動車の残骸で埋め尽くされ、特に自動車が炎上すれば、とりわけ避難の支障となるだろう。(広島市国民保護協議会核兵器攻撃被害想定専門部会『核兵器攻撃被害想定専門部会報告書』2007)
1945年8月6日、崇徳中学1、2年生410人は爆心地から東に800mほど離れた八丁堀で建物疎開作業をしていた。広島城の堀を埋めたてて今の八丁堀西交差点から北に向かう京口門通りが作られ、当時はそこを路面電車(白島線)も走っていた。京口門通りの西側には西練兵場があった。
原爆で崇徳中学1、2年生は全滅と言ってもいい中で、営林署(今の税務署あたり)の前で同級生の弁当の見張り番をしていた竹村伸生さんは、トラックの陰に入っていて熱線の直撃を免れた。
気がついたら辺りは真っ暗。「明るい方へ逃げえー」の声に夢中で営林署の塀の上に上がり、倒れた家の屋根に飛び移って逃げた。
道路は電車の架線や電線がジャングルみたいでスースー自由に歩けんからね。またいだりジャンプしたりして逃げましたね。白島線の電車通りは、向こうから来て八丁堀の方へ行く人もいたし、逆に爆心地から向こうへ逃げて行く人もいました。(竹村伸生「爆心八百メートルの記憶」ウェブサイト被爆証言を遺そう!ヒロシマ青空の会)
誰もが右往左往する中、竹村さんは明るい方へ行かねばと紙屋町に向かったのだが、途中で兵隊から「紙屋町は火事で近寄れん、引き返せ」と言われた。明るいのはそこがすでに火の海だったからだった。
道路は電線だけでなく、脱線した電車も燃え上がり行く手を塞いだ。爆心地から380m離れた当時の日本銀行広島支店3階で被爆した平岩好道さんの証言がある。
火は迫り、電車道に停まった電車に火がついて、もの凄い炎をあげて燃え、三階の窓の高さも越えていた。そのうちに、三階の室に火が入った。秘書係の方から火が入ったという人もあったが、自分は電車の火から、火の粉が直税部の飛散した紙についたものと思う。(平岩好道「日本銀行支店三階の惨状」『広島原爆戦災誌』)
当時市内で写真館を営んでいた川本俊雄さんが1945年11月に撮影した写真には、日銀広島支店の前に路面電車が見える。半鋼製の車体で電車の形は残っているものの黒焦げになっているようだ。(広島平和記念資料館ホームページ平和データベース)
原爆がさく裂した時刻に走っていた路面電車は63両あったが、市内中心部を走っていた電車は全焼22両、大破22両など大きな被害を受けている。(加藤一孝『もう一つの語り部 被爆電車物語』南々社2015)
紙屋町交差点の西側の電車は木片はなく、丸焼で顔を窓に近づけることができない。鉄骨が熱く、車中にはがいこつとなった骨類が山の様に散乱していた。(「被爆者救護活動の手記集(暁部隊)」『広島原爆戦災誌』)
1945年8月の広島では、路面電車がビルの3階を越える高さまで炎を吹き上げた。近未来に都市の上空で核爆発が起きたとしたら、今度は衝突し転倒した自動車から噴き出す炎で道路はたちまち火の海となるに違いない。その時どうやって逃げたらよいのだろう。