人類の自殺68 救援3 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島市の中心部を火の海にしたのは、原爆のさく裂により放出された強烈な熱線(主に赤外線)だった。

 

 標準原爆の熱線の場合、とくに重要な点は、大量の熱線が短時間(爆発から約0.2秒ないし3秒までの間)に放射されることである。このような短時間では、熱伝導によって逃げる熱量はわずかであり、大量に吸収されたエネルギーは物質の表面だけに局限されるので、その表面は非常な高温になる。広島・長崎の原爆の場合、爆心地の地表面の温度は3,000〜4,000°Cに達したものと推定される。(広島市長崎市原爆災害誌編集委員会『広島・長崎の原爆災害』岩波書店1979)

 

 爆心地の地面は一瞬ではあるが3,000〜4,000°Cになり、そのため爆心地一帯は大火災となった。爆心地から260mの芸備銀行(現 広島銀行)本店で奇跡的に助かった高蔵信子(あきこ)さんの手記に詳しい。

 

 電車通りの方に出て防火用水の前にしゃがみました。広島中が燃えているのですから大変な熱気と煙で、これからどうなるのかという不安と恐れ、それはとても今、表現することは出来ません。その中、火の塊が旋風となって2、3分おきに吹いて来ました。傷つきながら、まだ生きていた私たち5、6人は、「ゴーッ」と火の風が吹くたびに、悲しみと、怒りと、恐れを含んだ声をあげて、「ワアーワアー、助けてー」と叫びました。(高蔵信子「今、語り伝えたいこと」広島平和記念資料館ホームページ)

 

 やがて「黒い雨」が降り出して火の勢いが衰え、高蔵さんたちは近くの西練兵場(今の県庁一帯)に避難したのだが、そこで生涯忘れられない光景に出会っている。

 

 爆発時、歩行中即死なさった方々の遺体が赤茶色に焦げ、道一杯に折重なっていて、そばを通りすぎて行くことがとても苦痛でした。朝からのショックの故でしょう、しっかり歩こうとしても、足がユラユラ揺れました。それでも「亡くなられた方々の遺体を踏まないように」と思うと、たびたび躊躇て、思うように足が前に進みませんでした。遺体の中に燃えている指がありました。手を空に向け、指は短かく変形し、青い炎を出して燃えているのです。薄墨色をした液体が掌を伝って地面に流れていました。(「今、語り伝えたいこと」)

 

 爆心地ではこのようにとてつもない熱線のエネルギーだが、爆心地から離れると急激に減少する。大雑把に言えば、爆心地の熱線のエネルギーを100とすると、500mで半分となり1000mで4分の1、4km離れたら100分の1ぐらいにまで減少する。しかし、4km離れた場所でも火事は起きた。それだけ原爆のエネルギーは凄まじかったのだ。

 爆心地から北に5km離れたイエズス会の長束修練院(現 聖ヨハネ修道院)。そこで被爆したヨハネス・ジーメス神父が手記に書いている。「修練院から広島の方にむかって一キロメートルほど谷を下ったところにある何軒かの農家に火の手が上がっているのが見え、谷をはさんだ反対側の森でも山火事が起こっていた」(ヨハネス・ジーメス「原爆!」カトリック正義と平和広島協議会『破壊の日-外人神父たちの被爆体験』1983)。

 それは農家の藁屋根に火がついたのだったが、では現代の都市ではそのような可燃物は少ないかといえば、そうではない。