八丁堀西交差点
政府は、核爆発が起きたときは次のことに注意して避難するよう勧めている。
爆発地点からなるべく遠く離れましょう。その際、風下を避けて風向きとなるべく垂直方向に避難しましょう。(「武力攻撃やテロなどから身を守るために」内閣官房2005)
しかし、核ミサイルが空中爆発した場合、どこが爆心地かすぐにわかるわけではない。また、風向きだけを気にするわけにもいかない。直後の火災は市内のいたるところで起きるのだから。
広島市南部の江波山にあった広島地方気象台(現 広島市江波山気象館)は原爆でかなりの被害がありながらも観測を中断することはなかった。
被爆10分後、江波山(高さ30メートル)から見た市内は、死の砂漠のように茶褐色で、上空は一面黒灰色のものにおおわれていた。15分後にはもう市内の各所から火の手が上がり、9時ごろには市内の中央部一帯は黒煙に包まれ、舟入町、観音町方面の火の手がはっきり見えるほかは、一面真黒な煙に包まれて行った。(北勲「終戦年の広島地方気象台」『広島原爆戦災誌』)
火が出だしたのは原爆のさく裂の直後だった。燃料会館(現 平和公園レストハウス)の地下室で被爆した野村英三さんが建物の外に出てみると元安橋の向こう側で炎がチラチラ見えたという。爆心地のあたりだ。
広島財務局職員の平岩好道さんは爆心地から南東に380m離れた日本銀行広島支店の3階で被爆した。被爆直後の暗闇が少し薄れてくると、窓の向こうに、爆心地の島病院の真向かいにあった広島郵便局から炎が上がるのが見えた。野村英三さんも、最初に燃え出したのは郵便局だったように思うと証言しておられる。続いて燃料会館でも窓枠についた火が建物の中に入っていき、産業奨励館(今の原爆ドーム)も燃え始めた。
平岩好道さんは爆風で飛ばされたメガネや靴の予備を探したが、見つけるのに時間はかからなかったようだ。それでまた窓の外を見ると外の様子が大きく変わっているのに驚いた。「大手町から県庁方面にも二〇メートルおき位に、火の手が一面に上っていた」のだ(平岩好道「日本銀行支店三階の惨状」『広島原爆戦災誌』)。広島県庁は当時、加古町のアステールプラザあたりにあった。爆心地から半径1kmぐらいでは、そこら中に火の手が上がるのはあっという間のことだった。
石田明さんは己斐行きの路面電車に乗っていて、今の八丁堀西交差点のあたりで被爆した。爆心地から東にわずか720mしか離れていなかったが奇跡的に無傷だった(もっとも放射線は嫌というほど浴びたが)。後に「曖光二十年」という詩を書いておられる。
中国新聞社の三階から 大きな火の帯が吹き出た
流川までの なんと長い道
死体をこえ 足もとをたしかめながら
くすぶりはじめた屋根をつたわり 夢中で逃げる
”兵隊さん つれてってくれ“
瓦の下からはい出した人が 勧銀の前で五、六人
無造作に包帯をまきながら
紙屋町方面に逃げたいと哀願する
向こうは火の海だ 広島駅の方へ逃げよう
といっても どうしても聞き入れない
(石田明 詩「曖光二十年」部分 『被爆教師』一ツ橋書房1976)
石田さんは京橋を渡り、さらに猿猴橋を渡って逃げた。この二つの橋は鋼鉄製で燃えなかったのが幸いした。石田さんが被爆したあたりも、それから30分後には一面火の海となった。