1945年の日本では、いつ空襲があるか分からない中でも多くの人は仕事に行き学校へ行った。四六時中、防空壕に隠れていたわけではない。近未来に戦争が起きても同じことだろう。
とすれば、核アラートが鳴った時すばやくシェルターに避難することはかなり難しい。地下街に逃げ込むとか物陰に隠れて初期放射線と熱線の直撃を免れただけでも幸運だと言える。しかし爆風と放射能を避けることは難しい。
核爆発による熱線と爆風がおさまった後で自分の命がまだあると分かったら、すぐにもっと安全な場所を探さなければならない。なぜならば、すぐに次の爆撃があるかもしれないから。また、すぐに街全体が炎に包まれるだろうから。そして一刻も早くけがや火傷、放射線障害の治療が必要だから。
1945年8月6日、広島二中の1年生は、今は平和公園になっている中島新町で被爆した。本川の土手に集合していたときにB-29爆撃機の爆音に気づき、空を見上げたら閃光が走ったのだ。
当時広島二中の4年生だった谷口劼(かたし)さんが、弟で二中1年生の勲(いさお)さんを見つけたのはその日の深夜だった。
見たら、すごい顔をしてね。こういうふうに膨れて、唇はひっくり返って、目はつぶれて、頭の皮膚は全然ないし、顔の皮膚はめくれて、手の皮膚もぶら下がったようになって…。(五日市高校放送部テレビドキュメント番組『黒い雨が降った』2011)
原爆の熱線に焼かれて膨れ上がった顔からは、とても弟だとは信じられず、劼さんは思わず「お前は勲じゃない」と口走った。でも、ベルトのバックルは確かに劼さんのお下がりだった。
勲さんは広島市西部の己斐(こい)にあった家に連れて帰ってもらったが、しきりに裏の山へ逃げようと訴えた。爆風で屋根が吹っ飛び、「黒い雨」で畳も布団もびしょ濡れという我が家だったが、それでも家が焼け残り自分の命がまだあるということは、また爆撃があったら今度こそ終わりだと思ったからに違いない。
7日昼過ぎに勲さんは担架に載せられて己斐の山を上った。「だんだん近くなったね」が最後の言葉となった。劼さんが、団地に造成されて昔の面影は全くない山の中腹で、「亡くなったのはこのあたりでした」と、私と放送部の生徒たちに教えてくださったのは10年以上も前のことになる。今はもう劼さんのお話を聞くことはできない。
今なら広島を壊滅させたのは一発の原子爆弾だったということは誰でも知っている。けれど当時は爆弾を一発落としただけで空襲が終わるとは誰も思っていなかった。そして近未来の核戦争でも核ミサイルは何発でも発射できる。広島市の核兵器攻撃被害想定では、「同時多発攻撃又は時間差多発攻撃」が行われる危険性を指摘している。(広島市国民保護協議会核兵器攻撃被害想定専門部会『核兵器攻撃被害想定専門部会報告書』2007)
ミサイルが爆発しても自分達は助かったと安心していたら、その途端にまた次のミサイルが飛んでくるかもしれない。とにかく命があるならば、体が動くなら、一刻も早くどこかへ逃げなければならない。
問題は、どこへ逃げたらよいのかがさっぱりわからないということだが。