広島城天守と原爆1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

幼年学校跡から見た広島城天守

 2024年1月13日付の中国新聞が「広島市は2024年、老朽化した広島城天守(中区)の木造復元に向けて本格的に議論を進める」と報じている。戦後に再建された鉄筋コンクリート造の天守は耐震性に問題があり、有識者の懇談会が2021年3月に、伝統的な工法で築く方が歴史的価値を高められると木造化を市へ提案。松井一実市長も早速同意した。

 広島城の天守は毛利輝元が建造してから400年の歴史を誇っていた。しかし原爆によって一瞬にして倒壊。

 

 この朝、いつものように兵二人を連れて、本隊 (歩兵補充隊)から城の北側の陸軍幼年学校(疎開済み)内に分室していた軍医部に出向していた増本春男衛生上等兵は、公用で大八車を曳いて、朝日に光る天守閣を仰ぎ見ながら、幼年学校の校門を出たとたん、強烈な青白い閃光を浴びた。

 体が宙に浮いた。「アッ!」と思うと、同時に三〇メートルばかり吹きとばされていた。

 モウモウと舞いあがる砂塵のなかで、息のつまるような一瞬、聳え立つ五層の天守閣の崩れ落ちるもの凄い音が聞えてきた。それはちょうど、山頂から無数の木材が、一度に転げ落ちて来るように、ドドドドー、ドドーと不気味に地面に響き伝わった。(『広島原爆戦災誌 第2巻』)

 

 そして広島城本丸跡はすぐに炎に包まれた。中国軍管区司令部の防空作戦室に動員されていた荒木克子さんの体験記にはこう書かれてある。

 

 ついさっきまで広島の誇りとしてそびえていた美しい鯉城の天守閣も、大本営の建物もあとかたもない。司令官のいらっした本館もかき消す如くで、あたり一面は、がれきの山。

 (中略)一番ひどかったのは何時頃だったかさっぱり判らなかった。大本営近くの小さな池の傍らで、何物をものみ込んでしまいそうな火の海に取り囲まれて、ほんとうに身が焦がされてしまいそうであった。池の水とはいっても底に少しばかりあるだけのきたない水だったがそれを浴びても数秒とはもたずすぐ乾いてしまう。何度も何度も本能的に水をかぶっていた。(荒木克子「軍管区指令部に動員されて」旧比治山高女第5期生の会『炎のなかにー原爆で逝った旧友の25回忌によせてー』1969)

 

 それでも、なぜか倒壊した天守の残骸には火がつかなかった。1945年10月に広島に入ったカメラマンの林重男さんが天守台に散乱する木材を目にしている。

 

 まわりの立ち木のほとんどは幹のみで、すべての枝はこげて吹きとんでいます。皇太子(のちの昭和天皇)が植えた松も地面から一メートルを残すのみでした。

 天守閣に近づくと、爆心地から一キロ以内なのにこんな不思議なことがと、目を見張ったものがあります。それは、燃えていない木材の山でした。厚いしっくいが原爆の熱線を防いだのでしょう。(林重男『爆心地ヒロシマに入る』岩波ジュニア新書1992)

 

 天守のある本丸跡では旧大本営の木造建築なども焼け残っているので、しっくいのお陰とは断定できないが、いずれにしても材木がそのまま保存されていたら日本の城郭建築の歴史や建築技術の解明、そして天守を元の姿にすることも夢ではなかった。けれど、何せ被爆直後は雨露をしのぐことも暖をとることも困難な日々が続いており、いつしか材木は跡形もなく消えてしまった。