広島城天守と原爆2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

現在の広島城天守

 原爆で壊滅する前の広島のランドマークといえば、西本願寺の広島別院と広島城の天守だった。それだけにこの二つの建物の消失は生き残った市民にとってショックだったろう。被爆直後の市内をくまなく歩き回った小倉豊文さん(当時 広島文理科大学助教授)は「広島城の天守閣と東西呼応していた本願寺別院の大伽藍が、消えてなくなっているのがさびしかった」と書き、そしてこう記している。

 

 ——兵隊もずいぶん死んだことだろう。

 そう思いながら目を転ずると、お城が根こそぎない。天守閣のないのは前の日に白島の方から見ていたが、矢倉もなければ、城門もない。あるのは濠と石垣ばかりだ。石垣ばかりで丸坊主のお城は哀感以外の何ものでもなかった。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫1982)

 

 毛利輝元が広島城をつくり始めたのは1589年。太田川の河口を干拓し、そこに三重の堀に囲まれて西国一の大名に相応しい豪壮な城郭建築が姿を現した。天守は今と異なり、金箔瓦が葺かれた五階建ての大天守に三階建ての小天守が二つ連結され、1592年に秀吉の朝鮮出兵で九州に向かう途中だったある武士は、「天守等見事なる事申すに及ばず」と手紙に書いている。(広島市未来都市創造財団広島城『しろうや!広島城 No.32』2012)

 ところがである。原爆で消失する前の広島城天守を調査した城郭研究家古川重春さんの『日本城郭考』(1936)によると、天守の内部はとても質素だったというのだ。将来木造で史実に忠実に復元されたら、観光客の中にはがっかりする人が出てくるかもしれない。柱のほとんどがありふれた松材で、それを鉋で削るのではなく釿(ちょうな)で荒く削っただけ。最上階以外は天井板が張ってないし、最上階の欄干も略式だったとある。(中国新聞社『広島城四百年』第一法規1990)

 その理由としては、一つには突貫工事だったことがあるだろう。毛利輝元は1591年にまだ完成していない広島城に入っている。翌年には豊臣秀吉が九州に向かう途中で広島に立ち寄っているので、それまでに城の格好をつけておく必要があったに違いない。天守の外観は整えても、内部までは手が回らなかったのではなかろうか。

 広島城天守が立派なのは外観だけだった理由の二つ目は毛利家の財政問題だ。毛利も他の大名と同じく秀吉の天下統一に向けた戦争にずっと駆り出され、また、大坂城などの大土木工事にも労力や資金の負担を強いられた。織田信長は安土城に豪華絢爛な御殿である「天主」をつくり、秀吉も大坂城天守の内部を金銀、障壁画で飾り立て財宝を所狭しと並べたという。しかし一方、現存する松江城などの天守の中は土蔵のように質素で、広島城はさらにその上を行っていたようなのだ。お金がなければ、使いもしないし誰も見るものもいないのに、天守の中を御殿のように飾り立てることはできない。

 それでも江戸時代、陽に輝いて眩しい広島で唯一の高層建築は、城下町に暮らす人たちの自慢にはなったことだろう。作るときはむちゃくちゃ重たい負担にひたすら耐えなければならなかったのだけれど。