広島は原爆によって電気もダメになった。広島文理科大学(現 広島大学)の助教授だった小倉豊文さんは8月6日午後の焼け野原となった街並みを次のように描写している。爆心地から東に1.8kmばかり離れた比治山町のあたりだ。
北から南に、新しく電車の通じた道路が、両側の黒い家屋の残骸の焼野が原に、クッキリ輪郭をつけてのびている。そこにはまばらな人間とトラックのほかには、動く何物もない。電車がとまっている。電柱が倒れている。電車の架線の鉄骨の電柱は根元からへし折れて倒れている。みんな一様に東に向かって倒れている。(小倉豊文『絶後の記録』中公文庫1982)
市内中心部の電柱はみな爆風でなぎ倒され、電線は切れてしまった。8月6日の夜は全くの暗黒となる。避難所の床の上、空き地や河原に横たわってただ朝を待つしかない。
けれど、その間にも懸命に働いた人たちがいた。広島逓信病院の医師や看護婦たちもそうだった。
広島逓信病院は鉄筋コンクリート造地下1階地上2階(一部3階)の建物で、爆心地から1.4kmほど離れた場所にあった(現 広島逓信病院旧外来棟被爆資料室)。爆風で鉄製の窓枠まで吹き飛ばされるなど内部はめちゃくちゃになり、2、3階の大部分が焼失した。病院の周りも火の海。だが診察室のある1階だけは懸命の消火活動でなんとか焼失をくい止めた。
爆心地から2km以内で残った医療施設は日赤と逓信病院だけだったから、すぐに負傷者が助けを求めてなだれこみ、病院の中は足の踏み場もないほどだった。
病院長の蜂谷道彦さんは自宅で被爆して全身傷だらけになり出血が酷かったが、逓信病院にたどり着いて何とか一命をとりとめた。病院の様子を聞いたのは翌朝になってからだ。
無疵の勝部君が小山君と一緒に私のところにきた。外科の看護婦の高尾さんが白衣を血まみれにしてその後へついてきた。高尾さんは怪我も火傷もない。皆、患者の手当てで徹夜した組だ。運転手の井口君が機転をきかせて、焼け残りの自動車のヘッドライトとバッテリーをはずして明かりをつけてくれたから助かったと異口同音にいう。お陰で一夜中患者の手当てができたのだ。(蜂谷道彦『ヒロシマ日記』朝日新聞社1955)
中国電力の前身である中国配電は、爆心地から800mのところにある本社が壊滅的な打撃を受けたが、戦争中ということで電力の復旧は突貫工事で行われた。翌7日には損害が割と軽かった段原変電所を応急修理し、焼け残った広島市南部に送電を開始した。8日には広島駅とその周辺、そして本社にも灯りをつけた。生き残った本社職員に遠方から駆けつけた職員、さらに兵隊の協力を得て、半焼けの倒れた電柱を起こし、切れた電線を張り直していったのだ。それは現在から見れば文字通り決死隊の活動だ。こうして8月20日には焼け残った家屋の3割、11月になって全ての家屋の電気を復旧した。(『広島原爆戦災誌』)
近未来の核戦争において壊滅した都市の電気がすぐに復旧できるとは思えない。戦争中では人員の確保が難しかろうし、放射線障害を避けながらの復旧工事はかなり困難だと思われるからだ。ではそんな時、核シェルター内のバッテリーは、いつまで持つようになっているのだろうか。