人類の自殺59 避難4 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 核ミサイルが飛んでくるというアラートで直ちに避難を開始し、核爆発が起きる前になんとか地上に達することができたとしよう。もちろん、そこで一息つくわけにはいかない。すぐにどこかに身を隠さないといけないのだ。

 1945年8月の広島の原爆被害を調査した呉鎮守府の救護隊は次のように提言した。

 

 敵機ノ近接ヲ知ラバ速ニ屋外ニアル有蓋退避壕又ハ横穴防空壕ニ退避スルコト

 

 さらにこうも言っている。

 

 防空壕内生活ニ慣ルルヲ要シ日本家屋ハ半地下式トナスコト(呉鎮守府広島派遣救護隊「広島派遣救護隊任務報告」『広島県史原爆資料編』)

 

 空襲警報が鳴り出した時にはすでにアメリカ軍機が上空に見えていたというのが当時の現実だったので、それなら最初から防空壕の中で生活するしかない、ということだ。けれど、その頃は原爆について何も知らなかった。当然、放射性物質が防空壕の中に入り込む危険性を予知できるはずもない。

 日本政府は近年、ミサイルが飛んできた時の対応として国民にこう勧めている。「屋内に地下施設があれば地下へ移動しましょう」(内閣官房『武力攻撃やテロなどから身を守るために』2005)。

 現在の広島市で一番高いビルは広島駅前の「ビッグフロント広島」だ。地下2階 地上52階建てで高さ193m。下層階が商業施設やホテルで、上層階はマンションになっている。このようなビルであれば災害時の避難誘導もスムーズにできるようマニュアルの整備や訓練がしてあるとは思うのだが、問題は避難にかかる時間と避難場所だろう。

 「ビッグフロント広島」の地下は家電量販店。爆発がある前に地下まで降りてきたとしても、そこにビル内にいる人間が全員避難できるスペースがあるとも思えない。そしてこのビルは駅前地下広場とつながっているのだが、地下広場は広島駅から逃れてきた人、駅前のデパートから出てきた人も加わって人数は膨れ上がる。ここもまた全員収容することは不可能ではなかろうか。

 もちろん、地下に避難していれば初期放射線や熱線の直撃は避けることができる。1945年8月の広島のような被爆後の焼けつく日差しや土砂降りの「黒い雨」に遭うこともない。

 川嶋博さんは当時船舶砲兵団司令部の初年兵で、爆心地から南東に2kmばかり離れた比治山の山頂にいた。原爆さく裂の後で驚いたのは、助けを求めて山を登ってくる負傷者の姿。ほとんどの人が服を焼かれ、大火傷をしていた。

 

 いつの間にか、比治山公園はこれらの人々でうずまり、一歩の足もさし入れる余地さえないまでになってしまった。

 いったい、何千人くらいの人々だったろうか。もう木の陰、草の陰さえ無いのだ。水を打てば、じゅんと音をたてんばかりに焼けついた小石だらけの地面に、水蜜桃の皮をむいたような焼けただれた身体を、じかに横たえざるを得なかったこれらの人々の苦しさは、想像を絶するものがある。(川嶋博「あの日あの時」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

  比治山では体を休めるのさえ無理な話だった。すぐにまた治療をしてもらえるところ、水や食べるもののあるところ、心と体が落ち着ける場所を探して移動しなければならない。それは近未来のビルの地下室、地下街、地下鉄の構内でも同じことではなかろうか。