人類の自殺57 避難2 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 広島市の『核兵器攻撃被害想定専門部会報告書』は、核ミサイルがさく裂した後の避難についてこう述べている。

 

 …空中爆発の場合には、爆心地に近いほど地上の残留放射線の影響が大きく、直ちにそこから避難することはさらなる被害を生むことになる。残留放射線は最初の1時間で大きく減衰する。このため被災者は、少なくとも1時間は残留放射線の影響を避けるため「地下室や窓のない部屋などの場所(ただし、収容能力には一定の限界がある)を探し換気装置を止め、塵の侵入を防ぐため目張り等を行って」そこにとどまり、その後「皮膚の露出を避け、口や鼻を覆い(ただし、アルファ線やベータ線による体内・体外被曝の危険性を低下させることはできるが、ガンマ線を遮蔽することはできない)」「爆心地及び風下を避けて」避難する必要があるだろう。(広島市国民保護協議会核兵器攻撃被害想定専門部会『核兵器攻撃被害想定専門部会報告書』2007)

 

 確かに鉄筋コンクリートのビルの中にいて核ミサイルさく裂時の初期放射線の直撃を免れても、すぐに外に出てしまったら残留放射線によってかなりの被害を被ることは確実だ。けれど核爆発は間違いなく街全体を炎で覆い尽くす。一刻も早く建物から出て、爆心地から少しでも遠くに、火のないところに避難する必要があることもまた確かなのだ。

 野村英三さんは、今は平和公園内のレストハウスになっている燃料会館の地下室で被爆し、無我夢中で1階に駆け上がった。地下室は真っ暗で何もわからないし、水道管の破裂で水没の危険性があったのだ。

 窓から外に飛び降りて、産業奨励館(現 原爆ドーム)の真向かいあたりまで逃げた。そのあたりは元々埋立地で当時は菜園だったから燃える物はない。その頃になると燃料会館も、川向こうの郵便局も産業奨励館も窓枠が燃え出しており、その火はすぐに建物の内部に入っていった。

 

 火勢は次第に拡がり大きくなって、からだは熱くなってきた。川の水は満潮からだんだん引潮になるので、一段一段とわれわれは石段を下りる。すじ向いの郵便局の黒煙は、竜巻のようになって空中高く上る。ときどきその煙の竜巻は倒れかかってわれわれの頭上に来る。その中からトタンの焼けたのや、板切れの焦げたのなどが身近に降って来て危い。(野村英三「爆心に生き残る」『広島原爆戦災誌』)

 

 野村さんたちに火の粉が襲いかかり、さらに土砂降りの「黒い雨」に打たれた。野村さんは一人救援を求めて炎と煙の中に飛び込んで行ったのだが、後に残った人たちの消息はわからないままとなった。

 そして助かったとはいえ、野村さんも放射線の被害を免れることはできなかった。

 

 九月一日の夜、急に悪寒を感じ四〇度前後の発熱はその後七、八日間つづいた。この間 廿日市町では、毎日毎日何人となく自分のような状態のものが死んでいった。咽喉は痛んでくるし、出血斑紋は五、六カ所も出る。歯茎がくさり、悪性下痢は一〇日以上もつづいて、からだはクタクタに衰弱していった。(「爆心に生き残る」)

 

 避難するといっても、前に進んでいくのか一旦留まるのか選択を迫られる。どれを選んでも、死を覚悟しておくしかない。