人類の自殺56 避難1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

千田町にある広島貯金支局の説明板

 原爆の爆風は強烈だ。爆心地からの距離が380mの日銀広島支店ビルは地下室まで爆風が入り込み、金庫室の鉄格子の扉が吹き飛ばされている。また爆風は部屋の中に入ると渦を巻いて荒れ狂う。千田町の広島貯金支局は爆心地からの距離1.6km。貯金支局の3階にいた大戸絹江さんは、ピカッと光りドーンと大音響がしたので慌てて床に伏せた。

 

 床にふせようとした時、もう部屋の中は爆風でぐるぐる上下に廻り、その時床に落ちているガラスをすくっては上に上げバラバラと落ちていたのでしょう。私がふせるとどうじに爆風が下から上に上るガラスと一緒に胸を強くうちました。ガラスの破片が私の乳房の上、おまけに左胸の上、心臓の上にささり血がドッと出て、「アー、私はもうだめだ」。そのまま机の下にもぐりました。(NHK広島「核・平和」プロジェクト『原爆投下・10秒の衝撃』日本放送出版協会1999)

 

 窓のある部屋からは爆風が来る前に逃げておくしかない。けれど「できるだけ窓のない中央の部屋に移動しましょう」といっても、金庫室の鉄格子を吹き飛ばすほどの爆風であれば、薄い壁はなんとも心許ない。そして、どこか隙間があれば、そこから爆風は侵入してくるはずだ。まさか現代のビルに空調のない部屋があるとも思えない。

 壁も天井も床も厚いコンクリートで、通気口もしっかり塞ぐことができ、同じ階にいる人全員を収容できる部屋なんて一体どこにあるのだろうか。

 広島貯金支局の2階で被爆した河内光子さんは、我に帰ると急いで1階に降りようとした。爆弾がまた落ちてきたら今度こそおしまいだと思うから。しかし河内さんは階段のところまで来て足が止まった。

 

 そこから下に降りようと思ったら、その下で朝一緒にまりつきした小使さんの子供がドブ(内臓)出して死んどる。

「うわあああああっ」

みんなドブを踏んで滑りよるけえ、こりゃ踏んじゃいけんと思って。

「お姉ちゃんまりつきしょ」

言うてきて、一緒に遊んだ子なんです。その子が寝とるように血を出して横たわって。(しの「戦争の記憶図書館」ウェブサイト70seeds)

 

 その日の朝一緒に遊んだ子どもの遺体を踏んで逃げることはできなかった。河内さんはやむなく窓から外に飛び降りた。

 誰もが人を押し除けても踏みつけても我先に避難しようとしたのには、爆弾の恐怖以外にも理由がある。

 爆心地から東に700m離れたデパートの福屋は戦争が激しくなると開店休業状態になり、新館(現 八丁堀本店)の7階には貯金支局の分室が置かれ、広島女子商業と進徳高等女学校の生徒が動員されていた。ものすごい閃光と爆風の後、進徳高女の教師だった馬場初江さんは生徒たちに「早く、早く逃げて」と叫んだ。

 

 足の踏み場もなく、一面に散乱した紙片が、仄白く眼にうつつた。崩壊された窓から入つて来た黒い煙に、ギヨツとして外を見ると、真向いの福屋旧館が、既に渦巻く黒煙と、生き物のような火焔に包まれてゐる。いけないつ!と思つた瞬間、生暖い風が、さーつと顔を撫でた。「早く、皆、急いで!」私は切れ切れに、そう叫んで生徒達をせきたてた。(馬場初江「原子爆弾体験記」広島原爆死没者追悼平和祈念館)

 

 しばらくして、福屋の新館もまた炎に包まれた。