1945年の広島では倒壊した建物や塀の下敷きになって死んだ人も多かった。爆心地から1kmほどの県立広島第一中学校で被害状況を調べていた陸軍船舶練習部第十教育隊の半井良造さんは、同じ偵察隊の三本さんに呼ばれ、校舎の南側にあったレンガ塀のところまで行ってみて驚いた。
三本らのいる所へ来て〝ウァ!!"とばかりに立ちどまった。長さ一五メートルか二〇メートルもあったろうか、長い煉瓦塀がコンクリートの基礎を残してバッタリと倒れ、その下に二〇人以上の人がずらりと並んで死んでいるのだ。町内会で勤労奉仕か、防空演習をするので町会長が訓辞をしている所を後ろからドカンとやられたらしい。(「被爆者救護活動の手記集」『広島原爆戦災誌』)
高さ1mほどの石垣の上にある2m近い高さのレンガ塀ならパタンと倒れただけでも危険だが、原爆の衝撃波は爆心地から1000mなら風速にして130m/秒。ものすごい力で押し倒したのだ。衝撃波は1000m地点まで爆発から2.15秒で襲ってくるから逃げようがない(『核兵器の多方面における影響に関する調査研究』外務省2014)。高い塀の陰で熱線を免れたとしても、それで命が助かるわけではないのだ。
当時広島女学院高等女学校2年の竹内園子さんは爆心地から1kmちょっとの雑魚場町で建物疎開の作業中に原爆に遭った。運よく倒れかけたコンクリート壁の隙間に入っていて火傷はなく、けがもちょっとだけ。けれど一緒にいた同級生の多くは崩れた壁の下だった。
その中に同級生の一人が足だけ埋まっていて、「助けて、助けて」と言っていたのに私たち三人は気づきました。助けようとして一生懸命になって石をのけたりしたのですが、どうにもなりません。そのうちあちら、こちらからポッポッポッポッと火が出はじめ、自分も早く逃げないと危険だという状態になって来ました。
私たちはどうしようもなくなり、「ごめんね、ごめんね」と言いながら、必死になって逃げたのです。(竹内園子「『助けて』の声を後に」広島女学院教職員組合『夏雲(改訂版)ー広島女学院原爆被災誌』)
高いビルが連なる現在の広島市(他の街も同様)。落ちてくるのはブロック塀やビルの外壁だけではない。ビルに吹き込んだ爆風が反対側の窓を突き破ったらどうなるか。下にいる人はガラスが凶器となって襲いかかってくることを覚悟しなければならない。さらに言えば、人まで落ちてくる。
1945年の広島、爆心地からの距離が380mの旧日本銀行広島支店で起きた惨事を、3階に疎開していた広島財務局の職員平岩好道さんが証言している。
又日銀から約三十間も離れた東北方の山陽記念館の屋上から九日の夕刻財務局女事務員三名の死体が発見せられたのであるが之は偶(たまたま)被爆の朝日銀のバルコニーに上つていて遭難したのではないかと想像せられる。他の一人は吹き飛された瞬間何かの障害物で片足の膝関節から鋭利の刃物で切断されたように切り取られて足は便所に吹飛び死体は北側窓下に落ちていた。(平岩好道「日本銀行支店三階の惨状」『広島原爆戦災誌』)
爆風に吹き飛ばされてバルコニーから、また3階の窓を突き破っての悲惨な激落死。現代の高層ビル街であれば、いったいどれだけ、そんな光景を目の当たりにするのだろうか。